ベイビー

ミツバチのささやきのベイビーのネタバレレビュー・内容・結末

ミツバチのささやき(1973年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

ずっと前から観たかった作品
映画館で観ることが出来て本当に良かった!

画角の美しさ。構成の見事さ。飾り過ぎない演出。日常から逸脱しないストーリー。邪魔をしない伴奏。それら全てに溶け込むリアルな演技…

どれを取っても本当に素晴らしい。その中でも一段と際立つのはアナちゃんの演技ではないでしょうか。あの透き通るような澄んだ眼差しが無ければこの物語の真の意味が伝わりません。

今作の邦題である「ミツバチのささやき」の“ミツバチ”が表すものは、主人公のアナであることはある程度想像できます。その根拠を説明すれば、アナの住む屋敷には蜂の巣を模したような六角形の格子窓が施されており、それを示唆するように父フェルナンドが作ったガラス張りの蜂の巣箱が書斎に置かれています。

巣箱から蜜を求めるミツバチように、夜ひっそりと自分の寝床から抜け出し、イサベルが言っていた精霊を探しに出かけるアナ。フェルナンドがガラス張りの巣箱からミツバチの神秘的な生態を観察するように、観客は神の目線となり、幼いアナの不可解な行動を追い続けることになるのです。

この作品はアナの行動を追い続け、一緒にアナの不思議に触れる物語。アナの視線の先を見つめるお話と言っても過言ではないでしょう。キービジュアルに使われている写真が全てを物語っているように思われます。

しかし妙に引っかかるんです。心にモヤモヤが残るんです。この作品は画角の美しさやアナやイサベルの可愛らしい演技だけが特徴の作品ではなく、何処か全体的に暗い影のようなものが落とされていて、その答えみたいなものが明確に描かれているわけじゃないんです。そのヒントになるのは「フランケンシュタイン」という映画にあることは分かるのですが、それだけではモヤモヤが解消されないんです…

ということもあり、別にヒントはないかと作品が描かれた背景を少しだけ調べてみました。そこで最初に目につくのは「スペイン内戦」です。

スペイン内戦は1936年7月から1939年3月にかけて、左派の共和国人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った内戦。結果としてフランコ将軍率いる反乱軍が勝利し、その後1975年にフランコが没するまで彼の独裁政権は続きました。

この作品の舞台は1940年のカスティーリャ地方。つい前年まで内戦が行われていたという背景があり、ここからフランコ独裁政権が始まった年とも言えます。

ちなみにビクトル・エリセ監督が生まれたのが1940年。そして今作が公開されたのが1973年。作品公開の約2年後にフランコの死によって独裁政権が解体されたことを考えると、これまでのエリセ監督の人生はフランコのイデオロギーとファシズムの下で悶々と過ごされていたことになります。

そういった目線でこの作品を振り返ると、物語の解釈の仕方がガラリと変わってしまいます。

物語の中でアナは負傷した兵士と出会い、献身的に看護します。それは兵士のことを“精霊”と信じたことの表れでしょう。その事からでも兵士は冒頭の“フランケンシュタイン”と重ね合わせた存在だと認識できます。

それを認識すれば、序盤でのアナの第一声がとても痛々しい余韻として頭の中に残ります…

「どうしてあの子は死んじゃったの?」
「なぜフランケンシュタインも殺されちゃったの?」

この時代の歴史的背景というフィルターを通せば、“あの子”を示唆するのは内戦で犠牲者となった子供となるのでしょう。そして“フランケンシュタイン”はイデオロギーの違いだけで戦わなければならなかった兵士たち。敵も味方も同じ“人”の心を持つものなのに、考え方の違いだけで相手を怪物と見ていた時代です。

そうやって角度を変えて作品を見てみると、アナの眼差しの印象も変わってきます。

ドン・ホセの人体模型。
石を落とした井戸の中。
父が踏みつけた毒キノコ。
猛スピードで走り抜ける列車。
焚き火の上を飛び越えるイサベル…

最初はアナが向けている眼差しは、彼女の“好奇心”の表れだと思っていたのですが、こうして彼女の目線に映っていたものを並べてみると、それらは“死”のイメージが漂っているように感じられます。

「どうしてあの子は死んじゃったの?」

アナはその疑問をいつまでたっても解消出来ないため、あの映画の中で殺された少女を自分と重ねるようにして、得体の知れない“何か”を見つけようとしていたのではないでしょうか。

この作品の原題は「 El espíritu de la colmena」。直訳すれば「蜂の巣の精霊」。先程、作品の邦題にある“ミツバチ”とは、アナの事を指している。という解釈をしていたのですが、時代背景と原題から読み解くと、この“蜂”とは内戦に倒れた兵士たちを示唆していることに気付きます。

女王蜂を頂きとして統率しながら働くミツバチたち。指導者に導かれイデオロギーの下に戦い殉じた兵士たち。生涯をかけて働くミツバチと命をかけて戦った兵士たちの姿が妙に重なって見え、この二つを重ねると、戦場に骸を残した兵士たちの魂が彷徨い続けて精霊となり、郷愁に駆られ故郷に戻って行く姿が想像できるのです。

アナが見ようとしているものは、そんな“内戦の残骸”のような現実めいたものではないでしょうが、“死”というものを上手く理解できない幼い少女の視線の先は、人体の不思議、魂の不思議を見つめているのではないでしょうか。その不思議の具体例がフランケンシュタインであり、精霊だと思うのです。

冒頭でフェルナンドが登場するシーンでは、フェルナンドが燻煙を撒き散らしながら器用に蜂たちを扱っていました。そして自分の書斎には養蜂箱の側面をわざわざガラス張りにし、ミツバチの行動を観察しています。

それと併せ、姿を見せないテレサを執拗に呼ぶ姿や威圧するように靴底を鳴らす足音、そして毒キノコを踏みつける姿。それらはファシズムとまではいかないにせよ、フランシス・フランコを示唆するような行動であり、あの居心地の悪そうなお屋敷もまた、当時のスペイン情勢の居心地の悪さを示唆しているのではないでしょうか。

そして内戦から戻らぬ人を密かに愁い続ける母テレサ。知ったかぶり、大人のふり、死んだふりなど嘯いてばかりいるイサベル。この二人はアナに寄り添いながらもどこか本心が見えてこず、フェルナンドと同様にあの家の居心地の悪さを助長させているように感じられます。

だからこそ、アナの真っ直ぐな性格が際立つのではないでしょうか。あの“本当”が見当たらない屋敷に住むからこそ、心のままに“真実”を探していたのではないでしょうか。

アナが探し求めた“真実”とは“精霊”の存在です。その精霊は井戸のある家に現れると信じ、足繁く通い続けます。そこで負傷した兵士と出会い、看病をするアナ。それはフランケンシュタインと街の少女が川辺で花を浮かべて遊んでいたような、とても優しい時間です。

その後、また井戸のある家にアナが行くと、そこに兵士はおらず、血の痕が残っているだけでした。そんな状況を見ればさすがに幼いアナでも何かは察することでしょう。何を思うかとぼとぼと歩き出すアナ。幼い子どもとしては、たいそうな遠い距離を歩いたのではないでしょうか。

行き着いたのは何処かの水辺。アナはそこに自分の顔を写すと、いつしか他人の顔が水面に浮かび上がります…

ここからの一連のシーン、凄くないですか? 川辺で顔が変わる演出はもちろんなんですが、あのアナが怯える表情… 映画史に残る名シーンと言っても過言ではないくらい、僕の中でとんでも無い衝撃が走りました。あのシーンがあればこそ、のちにアナが口を利けなくなった根拠がすんなりと伝わるのではないでしょうか。

そして口の利けなくなったアナは夜に窓を開けて精霊たちにささやきます。

「私はアナよ」

この最後のカットも最高です。アナの部屋の窓から外を見ると、月夜に薄く霧がかかっているのが見受けられます。それはあたかも冒頭にあった蜂の巣にかける燻煙のようで、その夜霧のにあてられ精霊たちは、やがてアナの呼びかけに応じてここに集うのでしょう。

こうして6歳の子どもの心情を見事に描き、それを政治的背景と絡ませる作品なんて、今まで観たことありませんでした。本当に凄い。見事としか言いようがありません。

この作品が公開されて約50年になりますが、ここ最近までにビクトル・エリセ監督が撮られた長編映画は僅か3作品だけでした。このことでもエリセ監督の作品はとても貴重と言えますが、今年になり約30年ぶりとなる新作を発表されたとのことです。その作品にはアナ・トレントも出演されているとのこと。

57歳になったアナちゃん…

同窓会で初恋の人と再会するくらい複雑な心境。
でも絶対に観たい、観に行きたい!
いつ日本で公開されるんだろう。

楽しみだなぁ
ベイビー

ベイビー