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ミツバチのささやきのkのネタバレレビュー・内容・結末

ミツバチのささやき(1973年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

映画として素晴らしい。
死をどう捉えたらいいか、その少女の瞳が真っ直ぐに揺れる。

死との出会いをとらえた映画。
子どもの頃に直面する、死という未知。初めて死を意識して対面する底知れぬ全てへの不信感。影(死)とそれに対比する光(生)との狭間が、意識した途端曖昧に揺れだす、瞬間瞬間の子どもの感覚を、多くの比喩を用いて確かに捉えている。
6歳のアナが姉のイザベルとともにフランケンシュタインの映画を見て、初めて強く意識する、死という概念。2人は自分たちの捉えきれない範囲に、でも身近に迫る死をなんとか捉えようともがく。イザベルは、死んだふりをしたり、ネコの首を絞めようとしてみたり、自分の血を唇に塗ったり、炎を跨いだりして、死との距離を自分に近づけて測ることで、自分の理解の範疇に取り込もうとする。一方アナは、死を前に立ち尽くすことになる。イザベルのように自分の受け止められる範囲だと納得しようと、未知を見つめるが、見つめるほどに、死はより強固な未知となって、アナを見つめ返してくる。
アナが納得できるようなロジックで死を真っ直ぐ的確に捉えることなく、その存在を知っておきながら誤魔化して生きることのできる大人たち。アナからすると、周りの大人たちは、同じく死を「知って」いる同士なのにも関わらず、そこに動揺の色を見せずに何食わぬ顔して生活し続けることのできる異質な存在としか映らなくなる。平気な顔をして生きる大人は、自分の理解できないものをどうやってか理解している風な顔をしているという、理解し難い存在となっていく。今まで絶対的な信頼のあった世界が、急に知らないものになって、遠くへ行ってしまって、信じられなくなっていき、それどころか、自分を取り残してしまっていったかのような裏切りさえ覚えるような不安が、ありありと描かれている。
その中で、自分の中で、死をどうとらえたらいいのか、静かに自分の胸の中で葛藤していく。どう捉えたらいいのか、迷いもがくアナの眼差しは、今まで特に疑いもしなかったであろう自分の生きる世界への問いへと、まっすぐに向いていく。その少女の揺れる瞳と、比喩表現の使い方が映画として抜群であった。
象徴的な比喩の一つだったのは、イザベルから聞いた精霊(死)の居所の畑の小屋である。アナにとって小屋は得体の知れぬ死そのものであったため、死という存在を自分の知ったものにするために、どうしてもアナには注目する必要があった。小屋を理解することで死を知ろうとするアナは、ある日小屋の中で一人のゲリラと出会う。アナはゲリラがお腹を空かせていて自分の差し出す食べものを食べることや、自分と同じように血を流したり靴紐を結んだりする必要のあることなどが描かれる。それはアナにとって死が自分の理解の範疇にあると感じられることは深い安堵であると言いたげである。しかし、ゲリラの男性はある晩銃で撃たれて死ぬ。アナにとってそれは死の「死」を意味していた。仲良くなった男性の死ではなく、自分が支配できる範疇にできたはずの死の崩壊である。アナは小屋の中の男性を自分の理解を超える、精霊(死)という概念として捉えておきたいがための存在として見ており、一人の人間として見たことはかったのだろう。それが崩れたアナは、再び世界がわからなくなり、夜の森を彷徨うことになる。そこで泉の中で自分の映った水面に見た、フランケンシュタインの幻影。自分の中にも存在している、逃れられない死との、現実での出会いである。
物語の始めに見たフランケンシュタインの映画は「偽物」であったが、アナはそれと現実との差を自分の中で説明がつかなくなっていた。あくまで偽物としての理解だったフランケンシュタインと、もう一度、生と表裏一体の現実世界で出会い直す必要があったのである。
人が死をいつのまにか迎合していく過程で、皆どこかでこのような挫折と出会いの体験をしている。この映画のアナの瞳を通して、子どもの頃の自分が見つめているよつな気がしてくる。もしかしたら大人も死を迎合などできていないのかもしれない。アナの父は、毒キノコを食べないように見分ける方法として、知識を得て間違えないことを教える。父はそうして死との距離を図ることで理解しようとしてきたのだろう。人はそうでもしないと死というものに耐えられない。父が知識でその差を埋めたように、姉があえて自分から距離を詰めて支配下に置こうとしたように、いずれ人は自分にとっての最善の形で誤魔化すように死を迎合していく。そうやって自分の世界を信頼しようとする。それが本当に大人になって生きるための唯一の道なのかはわからない。しかし、その迎合の過程を踏むことは、大人にも子どもにも、その問いに出会った瞬間、必要不可欠である。ミツバチの行動を観察し言葉(知識)にしようともがくがうまくできない父も、またその問いから逃れられてはいない。目を逸らさないで、と泉に映る子どもの頃の純粋な恐怖は、今の自分へもまっすぐな瞳で問いかけてくる。

この映画を撮らざるを得なかったことが、スペインの当時の背景を想像した上で映画の端々から熱く伝わってきて、映画を撮理、映画を語る意味をまた一つ教えてくれた。自分を強く見てくれる映画というよりは、映画としてこれを残して見せようと思った当時の切実な熱さに胸打たれた。最初のアナがフランケンシュタインに釘付けになるシーンはドキュメンタリー風に撮られたとのこと。洋画は詳しくないし、視覚的美しさなどの評価はあまり着目していないが(絵画的な技法が多く使われているらしい。確かに絵になるカットが多かった。)、それでも売れるための映画ではないことは観たらわかる。人の目を生き返らせるために命を削った撮り方。映画とはかくあるべき。
映画の最初に出てくる、移動映画館と、持ち込むイス…。観る人への衝撃な映画体験。あんな場を作りたい…などと思う。
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