碧

山猫の碧のレビュー・感想・評価

山猫(1963年製作の映画)
4.8
物語は公爵ファブリツィオが壮麗な邸宅で家族と祈る場面から静かに始まる。

はつらつとした若さに満ちた甥のタンクレディがやってくる。彼も貴族であるがふさわしい資産は持っていない。自らの将来をその手で切り開こうと、体制変革のための戦いに1時間後出発すると告げる。

今まで貴族制度の恩恵を享受し恵まれた環境にいるファブリツィオは、当時広がっていたイタリア統一運動により自らの地位の基盤が揺らいでいることを知りながら、今まで自分を支えてきた体制を捨てることができず、改革派に身を投じようとする甥に反乱軍などマフィアの集まりだと言う。

しかしタンクレディは、冷静に「変化しないために変わらなくてはいけない(生き残るためには今のままではいけない)」と言い返す。

シチリアに侵攻した革命軍が政権を王国に渡し、さほど粗野な態度を取らなかったこともあり、予断を許さない政治情勢のなかで複雑な気持ちを抱くファブリツィオの言葉の多くは、教養と知性、信仰による寓意と含蓄に満ちた謎めいたものが多い。わからないところは動画を止め、イタリア近代史を読んで見直したが、知識の乏しい私には正確には理解できていないかもしれない。

例えばあるとき新政府から貴族院の議員にと誘われたとき、使者に言った言葉がある。

“以前英国軍が私の邸を訪れたとき、テラスからシチリアの風景を見せたところ、美しい風景ながら沈滞した街の空気に「革命軍はここへ何をしに来たのか?」と英国軍が訊ねたので、「礼儀を教えに。だが我ら神に向かっては無意味だと」「彼らにこの意味はわかるまい」”

これは単に貧しいシチリアを支配しても得るところがなさそうだが革命軍の目的は何かという問いに対し、理想の国家体制を敷いても、厳しい風土のなかで、したたかな者のみ生き残るシチリアの民の在り方は変わらない、というあきらめに近い心境だろうか。

また、誘いは断ってしまうが使者を見送る際こう言う。

“我々は山猫だった。獅子だった。山犬や羊どもが取って代わる。そして山猫も獅子も、また山犬や羊すらも自らを地の塩と信じ続ける。”

地の塩は聖書にある言葉で、社会のためになる尊敬すべき人。獅子は王家に連なる者を、山猫は自らを、山犬は革命軍を、羊は金儲けの上手な新興勢力を指し、体制が変わっていっても(人々の在り方の根本は変わらないが、)為政者はだれもが自分を社会にとって不可欠だと考えている、ということだろうか。

そして、ファブリツィオの仕草や眼差しは、このような謎めいた言葉の数々、女性に対するチャーミングとしか言いようのない愛情表現、ユーモア、少しの皮肉、憂いを帯び様々な感情が複雑に入り混じった老境に入りかけたとは思えないほど魅力的なものだ。

知り合いの大舞踏会で甥の婚約者である野性的な美貌のアンジェリカを相手に踊るワルツは、すべての招待客の視線を釘付けにする。彼女を白百合の精のように涼やかに優雅に輝かせる。女性の美しさをこのように最大限引き出すことが男性が上手く踊るということなのだろうか。美しい女性、つきつめれば何であれ、普遍的な美しさの価値を認め大切にするのが喜びなのだろう。

また、会場に来ていた国軍将校の、まだ残されていたローマをイタリアに編入しようと侵攻していた改革軍の英雄ガリバルディをピエモンテで阻止し負傷させたときの話で、けがをさせたがかえってガリバルディに感謝されたなどと自慢気に話しているのを聞くと、「それは誇張では亅と怒りを表す。

贅沢な舞踏会も寂しげな終わりは旧貴族制度の滅びを予感させる。しかし最後に、志の成否に関わらず社会を良くしようとする者に対する敬意が置かれるのは、この映画がよく言われるリアルな貴族生活や滅びの美学の表面の下に、ほとんど絶望しても微かな、でも消えない希望が隠されているのではないか。
碧