(綴りによる歴史)、その極到に触れて
ジャン=リュック・ゴダール
「ゴダールの映画史」(全8章)
この全8章からなるデジタルビデオ作品、第一巻だけをDVDで観て以来、あしかけ20年足止めを食らいましたが知己の力の結集でこの度めでたく全て鑑賞出来ました。
殆どの方々がそうであるように私にとっても映画レビューを挙げる事は未知の瞳を誘発する事を目的としています。
それはゴダールだって例外ではなく、むしろゴダールだからこそ若い方々を誘発したい。
近隣に住むおよそ15人の芸科大生が時々私の店に来た時にゴダールに関する様々な質疑応答が発生します。
(先生、ゴダールの何が面白いんですか?)
(あんなのを映画と認めてはダメでしょう?)
(いつも15分目あたりで寝落ちします)
(お経を聞きながら海を眺めてるのと変わりないんじゃないですか?)
(難解とか述べる以前にそもそも意味なんてあるのか?と疑問に思えてきました)
(大体、ずぶの素人にも映画が撮れると思わせた罪悪人じゃないですか?)
極めつけは美術専攻の女子大生の痛い言葉
(ゴダールの映画を面白いなんて言ってる人、自分が他人からインテリに見られたいだけの気がします。先生だってそんな感じ)
私は一切否定しません。何故なら他ならぬ私がゴダールと、ゴダール好きを自称する多くのシネフィルたちにそんな思いを抱いてきたのですから。
それでも私は(何が面白いのか?)(映画と認めがたい)(意味があるとは思えない)(ずぶの素人を勘違いさせた罪悪人)と感じようが(寝落ち)しようが(お経)に聞こえようが、まずは観ておけと促します。
自宅での鑑賞なら途中で止めても良いし、劇場で時間の無駄と感じたなら体調不良のフリでもして席を立てば良い。
そして二度とゴダールは観ないと決め込むのも構わない。
ですがその後、映画そのものとの付き合いが何十年も途絶える事なく続いていくのであれば若いうちにゴダールを少しでもインプットするかしないかで大きな隔たりあったに違いないと思う日が必ず巡ってくる。
ゴダールを否定する事は容易い。ですが実行出来た者はいない。
何故そう言い切れるのか?
ゴダールを真っ向から否定してみせる、と言い放ちながらあしかけ30年以上ゴダールを繰り返し観てきた輩は、他ならぬ君たちの目の前にいる今の私だから、と彼らに答えています。