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チーズとうじ虫のmのレビュー・感想・評価

チーズとうじ虫(2005年製作の映画)
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とんでもない作品
文脈によるショットの強度よりも、一つ一つのショットに込められた、もしくは滲み出してしまう重みを苦しくなるほどに感じる。

カメラを構えるという行為が、被写体とカメラマンに与える断裂。そのことが奇跡的に、母と娘のこれから来る断裂(死)を物理的に再現することになっているので、このドキュメンタリーは、ドキュメントやフィクションという垣根を超えた作品になってるんじゃないだろうかと思う。

もちろん、編集という行為によって、意図的に時間を切り貼りすることで娘の文脈が生まれていて、そのことが支える感動もある。しかし、それを超えて、たまたま、カメラマンである娘が発見してしまうショット・時間が、母の死(全ての命)に対する態度を醸成していくことに繋がっていて、それが丸々編集そのものに繋がってもいるので、作為的でありながら無作為であるという究極のバランスを維持している。

被写体がカメラを意識せざるを得ないように、カメラマンが料理や食事といった日常の動作をカメラを握っていることで参加できなくなること。私たちが見ることのできる時間は、必ず、母と娘の間にカメラが存在してしまうというジレンマを認識する。
だからこそ、語り手(カメラマン)と被写体の間に起こっているショットの強さがあるのだと思う。もしくは、被写体というだけで飽き足らず、世界全体への態度として限りなく、本物の誠実さとして現れているに違いない。
ここでいう誠実さというのは、人に優しくするとか、相手の気持ちを慮るとか、そういう毛程の役にも立たないことを言っているのではなく、本当に生きるということの誠実さがある。
それは、ありのままを映そうだなんていう欺瞞の全くない、物語を語る姿勢を曲げない編集に支えられてもいる。

母が三味線を弾くシーン、死にゆく母にではなく、その死を見送り生きていくであろう祖母の方にズームした瞬間、コスモス畑に感じる太陽の温かさと風のすぐ先に、冷たい地面や湿度があるような、その混沌のすべてがあった。
あの決定的な選択の、この胸中をどう言葉にできるのか。

コスモス畑のビビットな色調の切実さ、ラストの風音に誘われてさなぎが全容を表すとき、これは、何なんだろう。
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