ボロボロに泣いた。
ドキュメンタリーを撮る、というか撮影するっていうことがすごく重要で、でも同時に日々を記録する側に回ることで、被写体の生活の営みに参加できないという矛盾もかかえていて。
だから、「撮ってたら手伝えないね」とさりげなく言ったりするその言葉が真にせまってくる。だって当然だけど、基本は利き手の右手でカメラを握っているんだから(それは畑の側道を歩くショットで明らかになる。カメラが上手にある草ギリギリを前進していく)。
でもどうしてもそれを収めなきゃいけないっていう使命感があって、その意識がこの映画全体を根っこから支えている。
生活の延長にあるものとしての映画。
あらゆる意図や意味がこの映画では無意識や無意味と同義になっていて、「カオス=無秩序」と言った前半部分と、「コスモス=宇宙=秩序」と捉え直された後半部分は、シームレスに接続されている。