mochi

アンドレイ・ルブリョフ 動乱そして沈黙(第一部) 試練そして復活(第二部)のmochiのレビュー・感想・評価

3.3
2月から2ヶ月にわたって、Vガンダムを観ていたため、映画は久しぶりの鑑賞。高校生のときに、「惑星ソラリス」を観てから約10年、ついにこの作品を観たことでタルコフスキー全作品を制覇しました。感慨深い。この作品はタルコフスキーの中でも割ときつい方の作品ですな。眠気を耐えるので正直必死だった。あと、皆同じ修行僧の格好をしているのと、スカーフを外した時と付けているときで結構印象が違うせいで、人間の識別が私には難しかったです。
伝記ものということもあり、話の流れ自体は比較的シンプルだが、出来事が淡々と続いていくので、それぞれの出来事にどのような意味が見出されるのかを考えていくのは難しい。また、普通の伝記映画と違うのは、連続的に描くのではなくて、重要なことが起きた年代をとびとびで見せてくるというところかな。
やはり面白く、解説を必要とするのは、なぜルブリョフが最後沈黙を解き、再びイコンを描いたのか、という点であろう。そのために鍵となるのは、そもそもなぜ沈黙し始めたからであるはずだが、この点は比較的明瞭に思える。ルブリョフは人を殺し、その罪に対する罰として、自らに沈黙を課したのである。そうすると、沈黙を解くことは罪を償ったから、と考えたくなるが、これはおそらく違うだろう。彼自身がそのように考えている描写もないし、そのような人物が素晴らしいイコンを描く、というのはあまりにも不可解な結末だということになる。明らかに、彼がイコンを書くことになったのは、鐘を作った少年であろう。だから、この鐘を作った少年の振る舞いとそれに対するルブリョフの対応こそが、問題を解く鍵である。
さて、その少年は父親から死んだ鐘づくりの本質を習った、と述べ立てた上で、鐘づくりの指揮を取ることになる。彼が指揮を取った鐘は見事なものである。しかし彼は完成後、自分の父が鐘づくりの本質を教えてくれなかった、と言い号泣する。それをルブリョフは慰めるのである。さて、このエピソードは何を意味するのか?最も直接的な解釈は以下である。少年の父は鐘づくりの本質を少年に教えた。しかし、少年は自らのつくった鐘を凡庸だと感じた。だから、自分の父親は本質を十分に伝えてくれなかったと思い、号泣した。あるいは、伝えてくれていたと気づきながら、自分の力不足を知り、号泣した。この解釈を以下では、標準的解釈と呼ぼう。この標準的解釈をとった場合、ルブリョフが再びイコンを描く決心をつける動機がここにあるだろうか。私はないと思う。標準的解釈によれば、要するに芸術は簡単なものではなく、言葉で伝えられる以上の技術を必要とする。だが、この解釈は、宗教的なテーマとは調和しない。ルブリョフが沈黙の禁をとき、イコンを描くということは、宗教的な要素を内包するはずである。なぜなら、沈黙の禁それ自体が宗教的だからである。
私がここで取る解釈は、超凖的解釈である。この解釈によれば、少年が号泣したのは、父の語った本質にしたがって作った鐘が、成功を収めてしまったからである。物の本質、行為の本質は、それを模倣することで容易に達成できるものではないことを、この少年は知っているのである。つまり、論理はこうである。父は少年に鐘づくりの本質を語った。少年はその通りに作った。そしたら、見事に鐘ができた。このことが、父の語りが本質をとらえていないことの証左である。なぜなら、本質は容易には達成されないからである。だから、父は本質を教えてくれなかった、と少年は泣くのである。彼はアンビバレントな感情に支配されていた。つまり、成功を祈りながら、失敗を祈っていたのである。失敗を通してしか、本質を知ることはできない。さて、このことをイコンに置き換えるとどのようになるだろうか?イコンを描くという行為は、ある意味で神を写すことである。しかし、神は写せるはずがない。つまり、神を描くという行為は失敗するしかない。神を描くことに成功しているイコンは、神の描写に失敗しているのである。ここには、鐘の製作と同じアンビバレントな様相がある。神を上手く描くことを目的としながらも、神を上手く描く、神の本質を体感させるイコンはある種の失敗を含む。なぜなら、真のイコンを製作するものは宗教者であり、宗教者は自らが神を写すことなど、到底できないと知っているからである。つまり、素晴らしいイコンの描き手は、そのイコンの不完全性を認識していなければならない。
すると、ルブリョフが沈黙の禁を解き、イコンを描くことに決めたのには、以下のような論理があることになる。彼は人を殺し、自らの不完全性を食い、その罪を償うため沈黙の金に入った。しかし、彼は鐘を作った少年を見て、このアンビバレントな様相を生きることこそ、人間のせいであり、そして自分の罪を償いことなのだ、と。罪を償うという程で、沈黙の禁を続けることはある意味で容易である。難しいのは、その不完全性を受け止めた上で、それでも聖なるものと向き合うことなのである。そのような人間が、罪深い人間が、神など写し取れるはずがない人間が、神を描くということ。これこそが、最も困難な試練の一つなのである。この考え方は、ルブリョフのキリスト理解とも調和する。ルブリョフによれば、神は全能だが、磔になることは決まっており、それにより、神と人の間を取り持つことが可能となる。とすると、ユダの密告に基づきイエスを殺した人間が、それでもイエスに縋らざるを得ない、というアンビバレンな様相が肝要だ、ということになるはずである。
これらは人生一般にも拡張されるのかもしれない。生きるということは自らの不完全性を知りながらも、それでも自己を改定しようとする営みなのかもしれない。イコンを描くという行為は、このことの良きモチーフである。聖なるものを不完全な人間が描くという仕方で、この人生のアンビバレントな側面を強調するからである。
最初のシーンは難しくてよくわからないです。
mochi

mochi