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裸の島のharunomaのレビュー・感想・評価

裸の島(1960年製作の映画)
2.0
溝口健二として
大いなる偏見を持って、この100歳の映画人、伝説の脚本家新藤兼人を見るのだが、
“魂(ショット)の飛散”がない。これに尽きる。wikiの大層な人間の20世紀の生き様に誰もが感服するしかないのだが、その実、師と仰ぐ溝口作品ですら、碌な作品を担当してすらいない。あくまでも師の溝口健二の生き証人としての価値。モスクワ国際映画祭という前近代的な世界から受け入れられ、大映画会社衰退後に、インディペンデント映画の先駆けなる、この監督作も、これは大文字のシネマではなく、どこまでも生ぬるい文化であった。同様にクソである伊丹十三を見ても、やはりショットではない。言語でしか生きられない人類の普遍的な弱さしかなく、それは愛、あるいは命がけの美では毛頭ない。
例えばどこでも2つのショットを見るだけで、
ロッセリーニをしっかり見ろと断言できる。
言語空間に揺蕩う新藤兼人なる言説は「ヒューマニズム」について、文化の側から人間の堕落を象徴している。
このような偽の問題は、いかに「よく生き」たかということはまったく関係がなく、ひとつのショットの質の問題でしかない、魂の問題でしか。ゆえに、ここには“魂(ショット)の飛散”がない。
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