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二人の銀座のニューランドのレビュー・感想・評価

二人の銀座(1967年製作の映画)
3.0
✔🔸『二人の銀座』(3.0)及び🔸『この声なき叫び』(3.3)

 何となく過去観た事はあっても、意識した事は殆どなく、見過ごしてきたような中堅映画監督ら。実質はこの人達が映画界を支えてるのに、と自戒しつつ。交換スマホも調子おかしく、再交換になりそうだが、その前に書いておこう。
 日活の鍛冶の『二人の~』。この後の監督長時間インタビューを聞きに上京?したが、1時間余りの本編もちと辛く、体調不良でこれだけにする。
 勿論初公開時は、小学生でもあり、観ていない。しかしこの主題歌、ブルコメ他、耳に焼き付いてるが、本作で最も印象的な尾藤イサオ(や小坂一也)は中学位まで、役者としての印象しかないのは、当時から芸能オンチ。当時の(著作権)権利感覚が、今の世からは甘っちょろく、また、互いにガナラなくて微笑ましい。プロ契約に貪欲な学生バンドが、苦し紛れの自作新作として、拾い届け損ねた楽譜を使い、大人気に。落し主の娘は預かり届ける物に挟まってたのが抜け落ちた、姉の大事な失踪恋人の遺した作と知り、見つけたバンドリーダーを責めると同時に、行方不明の姉の恋人を探してく。良心の呵責に苦しんでたリーダーは、売出し業界人らには打ち明ける一方で、素晴らしい歌曲の紹介拡めに悪びれはない。しかし、恩師の作品盗用で追放前に最後の記念作をと分かり、業界人は彼は発言できぬと、売出し戦略を進める。二組の恋·デュエットの進行が、対峙し権利は確定した上で、皆の歌と化させ、特定者の利権化を防ぐ。
 ズームや寄る、活き活き呼吸のカメラワーク、CU(連打)表情やトゥショットや90°変の力感、らはあるがストーリーも含め敢えてか、未だ二十代前半から二十歳になったばかりだろうに和泉=賢が既に劣化しチャラいが、特に前半の白黒が、生々しく浮き上がる強いコントラストは顔の造作迄も変え、薄っぺらいストーリーより不気味な世界の存在を感じせる。後半はルックも普通に戻るが、その楽観素直世界は酷いまでに悪くはない。
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 松竹·市村の『~叫び』。俯瞰めやローや、ズーム·前後移動、横めフォローの確かさ、さり気なくも時に鋭いどんでんや縦図や切り返し、ロングや音楽の叙情ら、はあるが立体や距離感で異化するよりも、常に松竹的な家屋との寄り添い感の方がある。何か今一つ積極的な創造意欲は感じられない。しかし、バランス感覚のあえて何かに執着しない拡がり可能性がナチュラルにある。
 ろう者で世話された玩具工場でも、その周囲でも偏見·差別に苛まれ、孤独な二十歳の貧しい青年。只1人の理解者で愛してくれ、自分が存在する意味でもある病身の母が、買い渡した高価ビタミン剤に混入の砒素の為に亡くなる。その金は、新たな理解者·姉弟の様な場末のバーに務める娘からの厚意で、2人の恋の為の邪魔者への(当時はあった)尊属殺人とされ、起訴·公判となる。バーの娘は自費をはたいて無罪の訴えに動くが、同じ境遇の弟に距離を置いて事故死させた過去の罪の意識もはたらいていた。彼女の熱意、自分の為に危機に陥れた事への焦り、はバーのママ·新聞記者·弁護士を同化させてゆく。減刑の為の罪状の部分認め、安楽死の自殺幇助に切替た姿勢はかえって青年を絶望させる。自殺未遂の遺書から、薬局の三十路やっと新婚の女薬剤師の、在庫なしを自分のビタミン剤からの分与~薬事法違反の開封分、それへの新婚若い夫の財産狙いの砒素混ぜ~意外な犯罪の形~が明かされてゆく。
 ろう者とバーの娘、薬局夫婦の、微細な感情取出しはやや不足、各推理もいい加減さあるも、様々な場、考えられない適材適所名俳優多数配置により、凝り固まらない視点から、社会の歪の告発が充分に果たされている。裁判長は、判決の後、取調官に変わり被告人に深く冤罪や偏見を陳謝する。
 法体系やそれへの意識は、現在とかなり違ってる二本だが、偏見や興味本位の人間性は変わらない。それでも、疑いから人間を信じる善意への切換は、当たり前·普通に、社会に人間味があった時代性を思い出す。
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