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静かなる決闘のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

静かなる決闘(1949年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 「生きて必ず帰って下さい」的な戦争エモ消費映画は沢山あるし、なぜかそれも特攻という題材にタイムスリップが用いられフィクショナイズされている(「永遠の0」、「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」を槍玉に上げてます)。じゃあ、その後生きて帰ってたらどうなんよ。戦地で心だけでなく、病を貰って帰ってきた医者の、その後の話。

 黒澤、特に初期は明確な憤りが台詞やらメッセージとして顕在化されており、それに感化されてこのレビューも初っ端は「生ぬるいぜ現代!」と説教くさく始まらせてもらいました。黒澤のある種の説教臭さは、戦後すぐの感情の記録として、今見返すととても貴重だと思わされる。大島渚が怒りの重要性を説いていたが、美化されていく戦争の記憶に対して、いや、確かに当時の人は怒っていたのだとフィルムは証明するのだ。

 意外にも恋愛モノの黒澤作品だ。主人公の恋愛は、聖人君子なみに純粋な愛として描かれる。「梅毒を患った自身のために彼女の青春を無碍にできない」し、不貞の決め手となるキスは寸前で達成されない。「卒業」よろしく駆け落ちしてもいいだろうに、それはしない。

 にしても、次作「野良犬」もそうだが、三船敏郎の泣きの演技には酷く共感してしまう。その後の屈強な演技像を知っているからなのか、不意に弱気を見せる姿が、ああ人間だものなぁとより思わされるというか。「医者だって人間でしょう?」というセリフが出るように、医者という聖人君子たらねばならないプライドの中に、恋い焦がれてそれだけのために生きて帰ってきたのに!という人間臭さが、愛おしい。三船もよかったが、千石規子演じる看護婦も良かった。こちらはオープンに人間臭いのだが、いじけた様と仕草は愛嬌のあるものだった。黒澤、侮ってました。この手のラブロマンス的なジャンルをしかし、黒澤は殆ど手がけてないように思えるのだが、なぜなのだろう。

 冒頭の野戦病院の居心地の悪さ。雨音とそれを受け取る桶が画面の前景に配置され、観客の視線を妨害する。また、あおがれる団扇もまたチラついて注意散漫にさせてくる。雨の豪雨の音が止まれば、次のシーンでトラックの轟音で紡がれる。

 地道な解決しかないし、それ故にじっとりと重苦しさも画面を支配し、カットもそこまで割らずに見せる方式(「偉大なるアンバーソン家の人々」辺りの影響か?)なので黒澤映画の中では地味めな印象の作品だ。しかし、そのヒューマニズムは一貫している。ラストはあっけらかんと希望に満ちていて、と思えば主人公の父の一言「(主人公が)幸せに生きてたら、案外俗物に育っていたかもしれない」がニヒルに響く。戦争があって不幸だが、その不幸で彼が聖人たれていたのなら・・・一体何を憎めば・・・。というか、指切って素手で手術すな!と元も子もないことを言ってみたり。

P.S.
「野良犬」や「天国と地獄」もそうだが、同じ境遇のものが何を持ってその後の運命を分けてしまったのかという、そんなモチーフが繰り返されているように思う。
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