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伝説巨神イデオン 発動篇のDemotoのレビュー・感想・評価

伝説巨神イデオン 発動篇(1982年製作の映画)
4.7
人類と異星人の全面戦争、その先鋒そして中核として孤独な戦いを続けるイデオン。すれ違い続ける者たちの悲劇の連続、終わりない戦いの旅をこの劇場版まで続けてきた。

その果ての

「こんな甲斐の無い人生、俺は認めない」

「私たち何のために生きてきたの」

そのような戦い、その中で生き延びる生が無意味であることを強く否定する意志は逆説的にそれを認めさせる効果から作品の悲劇性を強め、描かれてきたものを象徴している。

それは現実の私達の生そのもの。
死ぬまで続く終わらない苦痛と戦い・後悔と喪失・永遠に理解し合えない他人同士による傷つけ合いと暴力・本当には意味の無い生。

このエンディングは突然でもご都合でもなく、必然だったと信じている。
すなわち生そのものの在り方を表しているから。それは命尽きるまで続く戦いと苦痛に突如として訪れる運命である。

シリーズを通して明かされないイデの本質的な意味もこの作品の悲劇性を裏で強く支えている。

イデとは端的に、創作のキャラクターに対する「視聴者の意志」の体現だと推測できる。

危機に初めて発動する。
子供の危険に強く反応する。
都合よく敵を討ち滅ぼし物語を運ぶ力。
宇宙の全てを越える無限の力。
そして、何億もの意志の集合。

アニメにはピンチと打開を望み、子供の傷付く姿は見たくない。敗北の手前から幾度も起こる、アニメの宇宙の理を超えた奇跡の力を起こさせる意志の集合とは。それは、「味方」に勝利を望む視聴者の意志に他ならない。

イデオンにおいて、それはキャラクター達と彼らの手の届く宇宙の外側の存在である。登場人物達はあくまで徹底的に、奇跡を起こせない、他人を信じられない、許しあえない人間として描かれている。それはリアルの人間より人間らしい姿だ。
(物語が何万光年の宇宙を行き来する話なのも、それだけのスケールを越えるイデが外宇宙的・非実在的存在であることを裏付けているのだろう。)

イデが異星人と人類の和解を促すのも、観客の希望か。破滅的な力をもたらし最後には全てを見捨てるのは、作品に描かれた人間に呆れ見限った視聴者に重なる。
アニメキャラクターの戦うべき真の敵とは、都合よく物語を運ばせたい観客だ。我々こそが話の都合=運命を司り、キャラクターを苦しませる。

イデオンで描かれた人間描写は真に迫っている。それは奇跡が常に人々の外側の存在であり、イデという形を取った観客との戦い=アニメキャラクターにとってこれ以上ない悲しみと痛みをもたらす「真の運命」との戦い、その構図の中で運命と対峙する人の生の有り様を嘘偽りなく示しているからだろう。

だから自分には、死後の対話と慰め、再生がとても嘘とは思えない。あまりに説得力のある、力の限りを尽くしたキャラクター達の生と死、その先にはせめてもの愛と慰めが待っているとこの作品は語った。だからこそ私達も、力強く死力を尽くした人生を送ろう。その先に、生き、出会い、別れた全ての人々と分かり合えるときが来ると信じられるから。
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