高畑勲以降、アニメは完全に大人の鑑賞に耐える娯楽となった。91年の邦画興行収入1位。田舎への旅を通じて、11歳のある時期を回想する。
水彩画のような回想パートと細部まで細かく再現された現代パートのバランスが交響曲のように心地いい。
日本の田舎風景を背景に流れるハンガリーのムジカ。高畑監督のヨーロッパ趣味炸裂。東北出身、美術監督男鹿和雄さんの美しい背景がハンガリー音楽ととても合う。
だがその里山は人が傷つけてはじめて存在できる。生きものと近くて遠い距離感覚。
都会の人でも、生まれ育ったことのない田舎に郷愁を感じるのは人間に心地いいバランスで自然が存在するからだと、劇中で語られる。
紅花のシナリオハンティングで高畑監督は、紅花に関する資料を大量に収集、読破した。だが紅花のシーンは2分にも満たない。細部が途方もないほどに積み上げられている。
里山はユートピアではない。そこには生活がある。冬の厳しさ、肉体労働の辛さ。朝の早さ。そこには当然生活がある。覚悟なきタエコの里山生活を田舎の人は見抜いていた。
トシオの嫁になることを迫られた時、それはお客さんから家族になることを意味する。現実が押し寄せることに、タエコは戸惑い、不安を覚える。こうした現実を無視して、タエコは田舎生活に希望を抱いていたのだ。
昨今、田舎生活が脚光を浴びているが、田舎はユートピアではない。そこには生活がある。
タエコは逡巡の末、トシオとの生活を選ぶ。
タエコが惹かれたのは、田舎暮らしではなく、トシオの生き方だったのではないだろうか。その手段として田舎暮らしが存在している。
つまるところ、幸福は何をやるか・どこにいるかではなく、誰とやるかにあるのかもしれない。
濡れ場のメタファーは雨で。その時なぜ、トシオはタエコの手を握らなかったのだろうか。
子どもの時に見ても、全くわからなかった演出やノスタルジーが波のように伝わってくる。
見れば見るほど、見応えのある素晴らしい映画体験だった。