あすなろ文化祭

市民ケーンのあすなろ文化祭のレビュー・感想・評価

市民ケーン(1941年製作の映画)
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この作品が傑作であるとか無いとか名作であるとか無いとか映画史上のベストワンであるとか無いとか技法が凄いとか凄くないとか、過去の名作であるとか無いとかくだらないコメントが散見されるが、映画そのものを全く観ていない観ようとしない事のただの裏返しに過ぎない。何よりもこの作品はウェルズ監督が仕掛けた無数の「仕掛け」を楽しむ作品である。例えば名高い「バラの蕾」については監督自身「安っぽいフロイト」と後年語っている。つまり「仕掛け」なのだ。したがって「バラの蕾」に何か人生的な教訓があるわけでも人の心象風景があるわけでもない。あるいはパンフォーカス技法もそうだ。実際この技法を用いてる場面もあれば単なる合成画面でパンフォーカスに見せている場面もある。これも「仕掛け」だ。作品におけるジャンルも「仕掛け」である。社会劇にも推理物にも見えるが音楽映画にも歴史劇にも喜劇にも見える。これも監督が仕掛けたまさに「仕掛け」に他ならない。もちろん即物的な「仕掛け」も無数存在する。ザナドゥー城、暖炉、橇、鏡、スノードーム、ジグソーパズル、鳥、雨、雪等々。見えないが「時間の流れ」も「仕掛け」の一つである。名高い回想形式だけではない、劇中に張り巡らされた様々な「仕掛け」としての「時間」。登場する人物でさえ「仕掛け」に過ぎない。この映画全体が一種の「仕掛け」だとすると、何のための「仕掛け」かとなるが、それは大ラストに現出する大スペクタクルのために他ならない。最終盤、カメラによる長回しと移動撮影の果て今まさに乱雑に暖炉に放り込まれ焼き捨てられようとする橇の「表情」こそがこの作品の「特異点」なのだ。「市民ケーン」を「映画の中の映画」たらしめ、凡百の傑作など足下にも及ばぬものにしているのはこの場面の持つ強度性である。時間軸がついに解体されそこに浮かぶ上がる「映画」そのものの生々しい姿が露わになる瞬間。我々はただ息を飲む事しか出来ない。この映画実は映画館の大スクリーンでしか分からない事がある。一体どれだけの人間が映画館でこれを観たかは分からないが、真にこの「市民ケーン」を体感するには映画の大スクリーンしかない。
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