きゃんちょめ

市民ケーンのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

市民ケーン(1941年製作の映画)
4.5
【服毒自殺のシーン】

アンドレ・バザンがジャン=ポール・サルトルによる批判からオーソン・ウェルズを擁護する著作『オーソンウェルズ』(堀潤之訳、2015年発行)を読んだら、面白かった。この映画の根幹にあるのは、批評家アンドレ・バザンを魅了した新しいリアリズムであるという。

スーザンが歌のレッスンをする2分40秒目のワンカットのシーン。このカメラの奥行きである。スーザンが服毒自殺をしかけるシークエンス。ここに新たなリアリズムの可能性がある。

アンドレ・バザンにとって映画は単に「写真プラス時間」という絵画との対照によって区別されるような芸術ではなかった。岩波文庫の『映画とはなにか』の第1章「写真映像の存在論」によれば、映画は「写真プラス時間プラス言語」であるという。しかし、ことにこのオーソン・ウェルズにおいては、デクパージュがワンショットに融解していく。

人はものを見る時、いろんな角度からはみない。その映像イメージが、この映画の中に置いて再現されている。前述の服毒自殺シーンだけを見てみよう。

巨大なコップ、小さなスプーン、これだけで画面の4分の1。そのずっと奥には遠近法により小さくされた、扉が見える。コップはスーザンのベットを隠していて、スーザンの弱々しい、死の直前の寝息が聞こえている。スーザンの姿もベットも見えない。これだけで観客はスーザンがやってしまったことを瞬時に理解する。このとき、視点はひとつしかない。しかも動かない。我々の世界の見方と同じである。遠くにある奥の扉を叩く音、近くにあるスーザンの寝息の音、2つの音の対比が、夫婦のあいだの緊張を示唆する。この緊張が、破られるドアによって強制終了され、火花が散る。それでもカットを絶対に割らない。ここに観客の解釈可能性を多く残した種類のリアリズムが出現した。

1.はじめに

本論の目的は4人のフランス文化人(アンドレ=バザン、ジャン=ポール=サルトル、ジョルジュ=サドゥール、ロジェ=レーナルト)による映画『市民ケーン』評が収録された小著 『オーソンウェルズ』(2015年 堀潤之訳)を用いて、極めて辛辣で否定的なサルトルの『市民ケーン』評が看過したこの映画の魅力を、まったく同じ映画についまったく逆の立場をとるアンドレ=バザンの映画理論を援用することで、あわよくば救い出すことである。引用文の末尾には丸括弧でページ数を示す。

2.食い違う印象ーウェルズのミスティフィカスィオン

サルトルは、この映画を知的なインテリの映画だと言った。それと同時に、「何よりもまず、 一人の男が作った作品だ」(p105)とも言っている。そしてウェルズについては、「彼の主たる関心は政治的なものだ」(p106)と言っている。では、このウェルズ論に序文を寄せたジャン=コクトーによる人物評を見てみよう。コクトーは彼を「オーソンウェルズは子供のようなまなざしをした一種の巨人、鳥がたくさん止まり大きな木陰をつくる樹木、鎖をちぎって花壇に寝そべっている犬、活発な怠け者、思慮深い道化、取り巻きに囲まれた孤独、授業 中に居眠りする学生、人に構われたくないときには酔っている振りをする策士である。」(p9) と評している。私にはこの「友人の横顔をスケッチ」(p14)したかったというまさしく彼らしい詩的な表現力と、一瞥で本質を射るような鋭い感性は、サルトルが見抜けなかったウェルズの煙幕を見透かしているように見える。では、バザンはどう評したか。面白い記述がある。「私たちは専門家の世界に生きている。−科学技術や産業の技術においてだけでなく、それ以上に、また科学の専門分化にすら先んじて、芸術の技法において。百科事典的な博識を持つ独学者に対する偏見が私たちのうちに深く根を降ろしているのはそのためだ。おまけに、こうした専門分化は洗練された芸術形式を推進し、そこでは趣味のよさが幅をきかせている。オーソン・ウェルズのような人に見られる明白な趣味の欠如、最良のものと最悪のものの無分別な混ぜ合わせ、そしていざという時には、途方もない効果を発揮させるために、 洗練された繊細な釣り合いを安易に犠牲にすること(とはいえ、彼の作品にはそうした釣り合いもふんだんにみられるのだが)などは、確かに私たちの芸術のヒエラルキーの感覚を損なう。彼にあっては、“野蛮さと策略と幼稚さと詩的な才能の奇妙な寄せ集め”(強調筆者) があるのだが、私たちはもはや、それが同じひとりの人物のなかに存在していることをたやすく許容しようとはしないのだ。」(p26)この引用部の前半において、知的専門人とわざわざウェルズを比較してみせたバザンの意図は、サルトルがいう知的スノビズムの陰がウェルズには見られないことを示すためである。私には、この友人たちの印象を読むに、ウェルズが映画芸術を転倒させにやってきた−もっぱらノンポリの−無邪気で革新的な表現者であったような印象を受ける。少なくとも、サルトルが書いたように、「彼が企てることのすべ てに共通する意味は、映画、演劇、ジャーナリズムという、自分が自由に使えるあらゆる手段に訴えて、アメリカの大衆を自由主義に引き入れたい、ということなのだ。」(p106)とは全く思わないのである。むしろ私の感得は真逆であって、それは(アメリカに自由主義を引き入れたかったのは、)他でもないサルトル自身であるように思う。サルトルは、『市民ケーン』に反射した自分の幻影を見ているのだ。詳しい説明と、その根拠は次に譲ろう。



3.サルトルの映画批評の問題点

サルトルは見たいものが見えているのではないだろうか。もしそうだとしたら、現代ならば映画批評家としての資質が問われただろう。(そしてこういう評論家は現代においても一向に後を絶たない。)このいささか穿った懐疑にはちゃんと根拠がある。というのも、サルトルはその批評において、あまりにも早急にこの映画が政治的な問題提起(「証明することを望む映画」p107)であり、「最後の映像で解決が与えられ」(p108)ていて、人気が出たのは 「アメリカの習わしに反しているから」(p105)だと決め付けている。そもそもこの映画の改変前の原題が『アメリカン』であるということや、ローズバット号が最後まで誰にも見つからずに燃えてしまったこと、「薔薇の蕾」という言葉が文学史的文脈(例えば『薔薇物語』) の中では味わい深い別の意味を持つことなど、サルトルの看過、強引な還元に疑義を呈する ことはいくらでもできよう。彼は「新聞王のハースト、保守派でドイツ贔屓、孤立主義者で 反ソヴィエト・反フランスのハーストを攻撃している。」(p107)というふうに、この映画を当時の政治的文脈に縮減してしまうからだ。しかし、本論のバザンとの比較という主題に合致するものとして私がここで検討したいのはむしろ以下の記述である。「彼の映画は、『PM』 誌の自由主義者たちや『新しい大衆』誌の共産主義者たちがハーストに対して日々投げかけている“攻撃文書によく似ている”。(強調筆者)」(p107)とサルトルは述べている。皮肉にも、この映画を"文書に似ている"と自分で言ってしまっているのだ。しかし、映画とは文書ではない。いまとなってはあたりまえの言明かもしれないが、ここに着目したこと(させたこと)が、ウェルズが成し遂げてしまった(バザンが言うところの)“リアリズム”であった。 バザンのこの衝撃的な言明を思い出そう。「『ケーン』と『アンバーソン家』における奥行き深い画面の組織的な使用は、もしウェルズがそこから古典的なデクパージュの改良しか引 き出していなければ、なるほど月並みな面白みを持つ程度だろうが、ウェルズはそうではない別の使い方をしているのだ。奥行きのある画面は、観客にみずから注意を向ける自由を行 使することを強い、同時に、現実の曖昧さを感じ取らせる。『アンバーソン家』の台所で展開されるようなシーンは、終いにはほとんど耐え難いものになる。このシークエンスショットの間中、“沸き立ってくる”のが感じられながらも“いつどこで生じるのか分からない” アクション(強調筆者)の成す迷宮において、カメラは私たちを助けにやってきて道案内することを執拗に拒んでいるようだ。」(p82)この引用部はバザンのリアリズムの威力を端的 に示している。『ゲームの規則』の追跡シークエンスでも見られたような、額縁を次々と横切っていく興味の中心(人・グラス・薬瓶・寝息・ドア)のせいで、我々は映像という現実、 その受動性(“パッション”)の中で、緊張感と画面の過電圧(いつ火花が飛ぶか分からない) を、常に高く維持することを余儀なくされる。固定カメラによるパンフォーカス、ワンシーン=ワンショットとは脱中心化を遂げた眼球なのだ。映画は“現実”よりリアルになりうる。 バザンが批評の内部で「沸き立ってくる」(p82)とか「まるで“砂漠”のようなこの個室の最奥部」という言葉を使っていることは実に面白い。なぜなら、ドゥルーズの映画観への接近が見られるからである。これがバザンのリアリズムである。そしてそういう映画は、観客に多様な解釈の可能性を開くのだ。(ちょうど現実が誰によって語られるかによって、いか ようにもその姿を変えるように。)だとすると、こう言っていいのではないか。サルトルのような文書的・言語的・政治的な解釈すらも可能にする懐の広さを逆説的に示したのがバザ ンの批評であったと。いや、もっと皮肉を込めて言ってみよう。サルトルは本当に「自由の刑に処せられていたのである!」そして耐えられず解釈の糸を必死で手繰り寄せた。


4.結語

「おおサルトルよ、おまえのアリアドネの糸はここにある−それは古典的デクパージュだ。」 (p138)
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