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モ’・ベター・ブルースのotomisanのレビュー・感想・評価

モ’・ベター・ブルース(1990年製作の映画)
4.2
 デンゼルの天才を闇を抱えたスパイクが食い潰してゆくような成り行きをどう食い止めるのか。天才トランぺッターは一度もレコーディングへ臨むに至らず、ブルックリンから世界に踏み出す事もなく、アメリカの歴史の半分は経てきただろう古いタウンハウスで息子マイルスに期待を寄せて生きるだけなのか?

 その現場がブルックリンである事、とりわけマンハッタン島と地続きとなった始まりの橋のたもとである事に監督の思い入れが察せられる。さらに物語の始めも終わりも古色蒼然としたタウンハウスの、並木道を挟んだ子どもたちの声が騒々しい中である事にも気が惹かれる。
 その声をうるさいとぼやく母親に尻を叩かれながらトランペットの練習に追われる子どもが、うそのように天才奏者として登壇する転換にすっかり捉われてしまうんだが、彼の天才ぶりも他の天才との確執も、女ふたりを綯い交ぜにする気のそぞろさも、結局、幼馴染のスパイクと運命を共にすることで置き捨てにしてしまうのが、いったい何を目にしているのか信じられない有様である。

 天才が経る転変の傍ら、ブルックリンもまた、その後マンハッタン島の地価高騰から逃れたアーティストや商店主の転入で装いも改まるようになり、やがて不動産価値の上昇から投機対象へと変わって行ってしまう。それもまだ走りの頃、それを古き良き、と言っていいのか分からないが、監督が二度も描いて見せる黒人街は1990年、車を締め出して子どもたちが溢れ、天才の看板を降ろしたデンゼルが息子マイルスに練習は後回し、友達のところに行けと促す。

 その様子にふとドライザーの「アメリカの悲劇」の終わりの場面を思い出した。殺人犯として死刑になった息子を偲び、流れ者伝道師の妻である母親が、育て方を誤ったと信じて、自身の孫、息子の姉の子で半分は黒人であるその子を、伝道者の子として厳格に躾けた息子の時とは異なるようにしようと内省する。
 夏の西海岸の都会、相変わらず街頭で伝道を続ける一家の夕景である。しかし、その傍らを擦れ違う若い白人夫婦は孫と祖母の会話を憐れみ、自分たちの子にはあんな生活を送らせてはいけないねと言葉を交わす。
 殺人者となった息子の経緯を悲劇というなら、それを繰り返すまいと心を砕く祖母ではあるがどこか悲劇的というか、知らぬ誰かによってことさら悲劇にされていくようでもある。
 これとおなじようにかつて天才と謳われたマイルスの名を継いだ息子の父デンゼルのやはり悲劇に違いないあの結末に更なる時代の波が訪れる、そうに決まっていると監督は思っているのだろう。嬉しそうに走り去るマイルスの通り過ぎた後に大書される「THE END」が、物語が自ら進退を決めたかのように鮮やかに映る。この黒人街の今生の思い出のような一篇である。
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