akannpani

奇跡のakannpaniのネタバレレビュー・内容・結末

奇跡(1954年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

奇跡


奇跡を信じるか


神や信仰は人が作ったものだと改めて感じた
死産となったときに悔やむのは祈りが届かなかったからであり、
死の淵から母を救ったのは,医者ではなく神であり
他人の信仰は受けいれることもなく

ただ、テーブルを介して、
画面の真ん中にテーブルライトを境に
後ろの絵画を挟んで、
二人が信仰について語り合い、
違いながらも、タバコの火は貸し合うところも、何か認め合っているようにも感じる


ワンカットでのパンが多く、
というかほとんど、

その人物の動線やタイミング、構図の計算
同時にスクリーンに映るのが一人ではなく複数であることがほとんどで、
人物の構図もパンが効いてる
複数なら、真ん中の人物を動かなさいことで、スクリーンから見切れては出てくる人物をパンに合わせることで、動き、(動揺であったり)を演出している

カメラがパンするということは、
今映っている部分が見えなくなっていくことであり、それはスクリーンの外の世界を同時に想像しやすく、情報も多い
カメラがここまでパンされると、それが無意識のうちに理解していくし、
映ってる人が消えてもっかい出てきたときにカメラの存在を全く感じずにこちらなんかを向かずに過ごしているのを見ると、
その世界がより生々しく感じられるし
ある種の資格の制限がありながらも、そこに立って地続きに物事が進んでいくのを観ているように感じる

同時にパンする中で、中央に捉えている人と流れていく人がいるから
誰を観て欲しいか.というのがわかりやすい

人は自分のために祈るのか、
何を律して祈るのか、

終始信仰というものの我儘さや曖昧さを感じていたところに、所々でそこへの信じる厚みを感じる


「本当の祈りは一人でいるときにする」
という台詞であったり、
娘が、妻が、亡くなったとき、
もしそうなったとき、
そこにはもう神様という存在でしか替えられない想いや、相手の存在の大きさがあると思うし、
最後の神父さんの言葉はとても綺麗で
悲しみだけに暮れるのではなく、
死者の生の温かさや、与えてくれた素晴らしい想い出こそに想いを傾けようという

最後にはまさしく奇跡というものを観たのだが、そのフィクションは映画たるフィクションであったし、
出産のときの旦那が持つライトの揺れや、カメラのパンや、医者が持つメスの数々に緊張感を感じた

冒頭ではTシャツが干されていた外で、
そこに風を感じたし、それが終盤にはなかった

音はその風と時計の音がほとんどで、
止めた時計を息を吹き返しまた動き出す演出

妻が息を引き取ってからの、
照明もかなりつくり込まれていたし、
棺に入ってからも、
その空間のシビアさ(シンメトリーな空間や静かにロウソクを付ける仕草)が、
結果、ラストに起こることに対しての
奇跡さというか、人智を超えたものというものを、より神々しくしたように思う
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