ジミーT

竹取物語のジミーTのレビュー・感想・評価

竹取物語(1987年製作の映画)
5.0
この映画の中に傑出したキャラクターがいる。それは中村嘉葎雄演ずる理世という密偵です。平安時代の物語世界にあってひとり近代的で冷静な眼と思考力でかぐや姫の正体に肉迫してゆく。しかしながら映画はこの理世というキャラクターを活かしきれずに終わってしまった。大変惜しいことです。これについては後で触れます。

映画としては終盤に現れる「未知との遭遇」もどきの宇宙船が全てのバランスを崩しています。平安時代の物語にはあまりに現代的で不自然なんです。前半の「根元が光る竹」も騒々しい音と共にヘンテコな光線が飛び交ったり、途中で登場する「竜」も浮いてしまっていました。全て唐突なんです。
これならばむしろ平安時代らしく、例えば「月光を浴びて牛車が空から降りてきて、かぐや姫はそれに乗って去った」とした方が遥かに自然に受け入れられたでしょう。「竜」も「光る竹のヘンテコな光線」も不要です。

製作者は「竹取物語」をSFと捉えて描きたかったようです。それ自体は大変面白いアプローチだと思います。
しかし平安時代の物語をSFと捉えるのであれば、まずは何より物語上でSFとしての論理を積み上げて「根回し」をしながら周到にディテールを固めて「平安時代の物語にSF的考えを持ち込んでも不自然さを感じさせない世界」を構築しなくてはならないでしょう。そして満を持して「未知との遭遇」風の宇宙船が登場すれば、観客に受け入れられたのではないかと思います。
しかしその世界が構築されないまま「光る竹のヘンテコな光線」や「竜」や「未知との遭遇」が現れるので単に不自然な唐突感と違和感しかありません。

ではSF世界構築のための努力が全くなかったかというと、ちゃんとある。それが冒頭に触れましたが、中村嘉葎雄演ずる理世という密偵です。
平安時代の物語世界にあってひとり近代的で冷静な眼と思考力でかぐや姫の正体に肉迫してゆきます。
製作者は、この理世という密偵を狂言回しとして、平安時代の物語にSFとしての論理を持ち込み、観客の先手を打ちながら「根回し」をして、その世界を作り上げるという意図があったのではないか。しかしそれが活かしきれず、中途半端に終わってしまったのではないかと思うんですよ。
何故そうなってしまったのか。

この映画の脚本チームは菊島隆三、日高真也、市川崑に加え、SFやミステリに造詣の深い評論家の故・石上三登志氏が参画していました。そして密偵・理世というキャラクターは石上氏の発案でした。理世(りせ)という名前も「理性」から名付けられたものだったんです(注)。
平安時代の古典的世界にありながらも近代的で冷静な思考と理性で「竹取物語」にSFの論理を持ち込み、その世界を構築してゆくキーマンとしてのキャラクターです。
しかし、SFにはあまり興味のなさそうなベテラン脚本メンバーに遠慮したか、石上氏はそれ以上に意見を押し通せずに挫折。結果「未知との遭遇」もどきの宇宙船だけが唐突に現れるという結果になってしまった。
このようなことではなかったかと邪推します。
「未知との遭遇」風の宇宙船を出せばSFというのはいかにもSFに興味のなさそうな人の発想。そうではなくて、この理世というキャラクターこそがSFとしての登場人物だったんです。
惜しい映画でした。

スコア5.0は、理世というこの映画オリジナルの優れたキャラクター創出に捧げるものです。

注 
出典忘却。忘却とは忘れ去ることなり。確かに石上氏の文章で読みました。キネマ旬報だったかなあ・・・。

追伸1
SFとして捉えるのであれば、「月から来た」という設定をどう自然に見せるかですね。観客はすでに実際の映像で、何もない月世界を見てしまっていますから。

追伸2
1987年に観た時の印象を頼りに書いていますので記憶違いとかあったらすみません。
竹取物語自体もン十年前の古文の授業の記憶のみです。

参考資料

キネマ旬報増刊 1998年8月17日号
「フィルムメーカーズ4 」
「ジェームズ・キャメロン」より
「作品論 ターミネーター」
「SFの神は細部に宿る 『ターミネーター』がSFファンに愛される理由」大森望
特に、以下の一言。
「SFは『絵』ではなく、その背後にある論理とディテールなのである。」
ジミーT

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