レインウォッチャー

ルナ・パパのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ルナ・パパ(1999年製作の映画)
4.5
「誰かの期待に応えるために悲しくなるなんて、つまんないって。」(アニメ『リコリス・リコイル』より)

山岳地帯の小さな町。女優を夢見る17歳・マムラカット(C・ハマートヴァ※1)は、月の光が届かない叢で、顔も見えぬ男と関係をもってしまう。更に、目覚めた彼女のお腹には命の兆しが。頑固で短気な父と、戦争で心が壊れた兄と共に、波乱の父親探しが始まる…!

重たく降りかかる現実を、時に突拍子もない、時にめいっぱい柔らかいファンタジーで包んだ寓話のような神話のような物語。

このマジックリアリズム的な愛らしいユーモア満載の飛躍表現は、E・クストリッツァ監督の諸作品(『アンダーグラウンド』『ライフ・イズ・ミラクル』etc.)にごく近い。トラッドに根差した音楽がストーリーを牽引していく様や、生活の中に動物がどかどか出てくるのも似ている。
そして何よりの共通点は、場所は離れているにも関わらず(タジキスタンとユーゴスラヴィア)いずれも独立とそれに伴う内戦に苛まれた国だということ。

今作にも、その傷と怒り、哀しみが進行形でありありと見て取れる。
主人公の名前、マムラカットとは《土地・国》の意味だという。作り手は、運命に翻弄される女性の姿を通して、祖国に暮らす人々そのものを描いているのだろう。

劇中、マムラカットには多くの悪いことと少しばかりの良いことが起こるけれど、いずれにしてもそのすべてはアクシデントの中。彼女には自分の人生を自分の意志でコントロールすることができないのだ。
この姿は、まさに政治情勢に振り回される人民と重なる。大きな権力の風向きによって、人生がまるごと左右されてしまう不自由。町の上を何度も行き来する飛行機が、序盤から映画全体に煩わしい音と影を落とす。事実、マムラカットにとって最大の不幸もまた、飛行機から「落ちて」くるのである。

そして中でも、女性たちの不自由にスポットを当てていることは言うまでもない。冒頭では《母たちに捧ぐ》とダイレクトに献辞が示される。
マムラカットは、今でいえばヤングケアラー等と呼ばれるかもしれない。母親が早世した家庭で、一生ものの傷を負った兄の世話をしつつ、自らも働きに出る。しかし、この町では決して珍しい立場ではないことも見て取れる。

子供を持つ(=持たない)自由、性の自由についても厳しく制限されている。この小さな町では未婚の母は「恥」であり、老若男女から罵られ辱められる。
マムラカットが子供を身ごもるに至る過程は、限りなく幻想的な描写で救われているけれど、明らかに同意のない乱暴に近い。しかしそれでも関係なく、彼女は「私が悪い」と謝らなければならない。このムラ社会特有の閉塞感(プラス、宗教的価値観のコンボ)は、女性を取り巻く二層目の「壁」となって立ちはだかる。

このメッセージは、マムラカットたちが訪れる演劇の舞台(父親は劇団の俳優だろう、と推測したため)によって強調されている。上演されている演目は『オセロー』や『オイディプス王』。いずれも性愛のもつれが関わる悲劇であり、決定的なのは「女が犠牲になる」ことだ。

しかしそれでも、この映画は悲観や皮肉に終わらない。
マムラカットは嘆きながらも天真爛漫で、ブルーとミルク色が混じりあう空と海のあいだで軽やかに踊ってみせる。そんな彼女を最後に救えるのは現実を越えた幻想でしかなく、それがたとえ逃避と呼ばれようとも、あらゆるしがらみを地上に残して「逃がす」ことを選んだ。

それで良い、あなたを不幸にしようとする何かのために悩んだり怒ったりする必要なんてない。行け、逃げろ、飛べ。

この結末は、時代も場所も貫いて、現代でもなお多くのマムラカットたち、つまりは命と未来に差し伸べられている。願わくば、これから幸せなことだけが起こるように。わたしは、その無償の優しさのありかを信じていたい。

-----

「再発見!フドイザナーロフ ゆかいで切ない夢の旅」にて。
https://khudojnazarov.com/

劇中ではよく「鼾をかく男」が描写されるのだけれど、当日の劇場でも近場から牛乳瓶入りのケースを引きずるような鼾が聴こえてきていた。なーるほどー、知らなかったけど4DXだったんだあ!おっ得ぅー!(Be Kind.)

-----

※1:おそらく、歴史上もっとも可愛い生き物のひとつ。『TUVALU』も映画館でやってくれ!