近藤啓二

野性の証明の近藤啓二のレビュー・感想・評価

野性の証明(1978年製作の映画)
4.7


(加筆修正中)

露のウクライナ侵攻前に借りてたので、このタイミングで観るとは予想もしていなかった。
これがホントの露知らず。

本作を始めこのころの角川映画を観ると、以前も「復活の日」で述べたが、80年代の日本の勢いがどのようなものだったかがよくわかる。

割と大きなシーンの塊を、ごろんごろんと並べて構成してる感がある。
この作品に限ることではないが、フィルム撮影の時代、また邦画特有の撮影方法も影響しているだろう。
また、剣劇芝居がベースにもある邦画の成立にも関係があるだろう。
セット撮影でその前後を埋めるつながりのカットなどがなく、シークエンスの核心から核心へと飛んでしまったりするので、感情が途切れやすい。
よく言えばダイナミズム、悪く言えば雑。

撮影側が、画面を担う俳優の顔に頼りすぎているのかもしれない。
高倉健が写っていると安心、というような事がおそらく今の芸能事務所主導の漫画原作レイプ映画の量産にも繋がっている。

健さんたちが戦闘を開始するクライマックスでは、このごろんごろんが弊害として特に顕著になる。
演習地での逃亡戦、頼子が兵を射殺するシーン他、カットとカットのつながりが明らかに雑だ。
アメリカ山岳地での撮影、また戦車など制作コントロールにも神経を使う物量の多さなど、撮影都合もうっすら推察される。
健さんを追い詰める松方弘樹のヘリなど、地上からの煽りで同じアングルばかりだ。
ワンカットでも撮影ヘリを飛ばして俯瞰ショットがあれば違っている。

あと効果音だが、あってしかるべき音が入っていない。
ステレオなので、こちらの再生環境の不具合かと思って切り替えたりもしたが、効果音バランスもおかしい。
再生環境によるのかもしれないが、なぜこのような音付けにしたのか、いまいちわからない。
もし意図があってのことなら、センスとして異議は唱えたい。

あとDVD収録のパンフ情報だが、健さんと頼子の逃亡過程に夏八木さんが意見を唱えて三人の逃亡になったらしい。
どのような話し合いがあったかはわからないので見当違いかもしれないが、はっきり言って夏八木さんのポジションが邪魔をしてしまった形になっている。
頼子という少女をめぐって庇護者、(かつても護ろうとして結果的な)加害者という主人公がアンビバレンツを煩悶することがドラマを濃厚にさせるのに、夏八木さんが庇護者のポジションになり特攻のラストと、いいとこどりしてしまったら、主役の健さんはただ罪悪を悔やみつづける中途半端なキャラクターになってしまう。

今も昔も役者の原罪というものがあるなら、目立とう感覚が行き過ぎて、全体を壊してしまうことに何ら無頓着なところ。

もしここで夏八木勲なる俳優が、引くことによって得るものがあると悟る人なら、もっと自身の役柄も生きていたと思う。
役者として嫌いではないけど。

いろいろ日本映画らしい雑さは書いてみるものの、やはり自分はこの時代の日本映画の豪快さ、角川映画の華やかさが愛おしい。

「ねらわれた学園の腹めだま」然り、当時どんなにへんてこりんだったとしても、情熱を注いで作られたものは反発され、笑われたり、アレコレ言い合いながら記憶に残り、タイムカプセルになる。
この年になるとかつての自分を含めて、また違った印象で懐かしむことができる。

自分が10代のころ。
少女たちはまだまだ、薬師丸ひろ子のように化粧っけもなく野暮ったさもありながら、最も美しいものだったし、
大人たちには力強く逞しい、目指すべき健さんのような男たちがいた。

映画を観に劇場にいくことは熱狂と興奮があり、特別なお祭りだった。
角川映画は、我々の青春謳歌の体現者であったと思う。
近藤啓二

近藤啓二