どんな低音も聞き漏らさぬ私たち観客の能力に賭けたようなスコセッシの想いに応えるべく
マーティン・スコセッシ
「クンドゥン」
この映画が公開された1997年、私は否が応にも1988年「最後の誘惑」の混迷感が去来して観る勇気がありませんでした。
初めて観たのは2006年「ディパーテッド」が公開された時、関西の劇場で監督特集上映されていた時です。
この時でさえ、「ディパーテッド」のみならず「グッド・フェローズ」や「カジノ」など、ひとりではとても背負いきれない枷(かせ)を抱えた傍系の人物たちが次々と鮮烈な死をとげることであらゆる循環を断ち切られる画面の起伏に圧倒されっ放しだった私にはどこか物足りない印象を抱きました。
ですが、洋画専門チャンネル(ザ・シネマ)で昨年放映されていた撮り溜めを整理する意味で再見すれば、ダライ=マラご本人の甥の息子さん演じる僧侶が、伝記映画の主人公としては信じがたいほど透明な輪郭に収まっている事に改めて驚かされました。
「最後の誘惑」のスコセッシが聖者をこのように描いていたのか、と。
1940年からチベット君主の座に就いたダライ=マラ14世が、1959年のインド亡命にて、ひとりの政治難民に至るまでの道のりを、(声)としては響かぬ囁きの低い振動で画面に震わせています。
それはまるで映画自身が本能的に震えているような錯覚。
チベット高原によく似たモロッコをロケ地にじっくりと腰を据えて、大多数のチベットの方々をエキストラに動員し、激動の一時代を描こうとしながらも、これまで設置されてきたようなスコセッシならではの舞台装置やみだりな小道具の導入が極めて自粛されています。
高原に住む質素な農家の末っ子ラモが、転生ラマの遺品を次々と言い当て、周囲の僧侶から(クンドゥン)と認定される場面から
わがまま暴君ぶりで周囲の大人僧侶の手を焼かせるわけでもなく、性を介した自意識で煩悩に苦しむわけでもなく、太陽が東から昇るのが当たり前のように、聖者になっていく静謐かつ穏やかなイメージに沿ってこの大作は綴られていきます。
スコセッシほどの手腕の持ち主なら観ている私たちの予見の差異をいくらでも炸裂できそうなのに、そんな(驚きやペシミズム)などを誘発する着火点など「クンドゥン」中には、一切装填されておりません。
誰もが衝撃的な響きを発そうと躍起になっていた前世紀末のハリウッド映画界で、どんな低音も聞き漏らさぬ私たち観客の能力に賭けたような野心に今更ながら驚嘆します。
登場人物全員が英語で話している事などを詮索する必要もありません。
これは史実の再現ではなく、スコセッシが持つ夢想の創出なのですから。
だから劇中人物たちが映画に相応しい言葉として堂々と英語で話していても心地よいのです。
私たち観客が、なすべき事はただ、騒音に慣れきった自分の耳を、20世紀末の映画「クンドゥン」によって、(映画の音)を聴き分けるように整え直すことだと思うのです。