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FLIRT/フラートのotomisanのレビュー・感想・評価

FLIRT/フラート(1995年製作の映画)
3.9
 米独日三様の"FLIRT"なやつの誠のあり方が問われる。この"FLIRT"が軽佻、浮気、尻軽と褒め要素ゼロの言葉で、三話それぞれを代表するフラート達はあちらとこちらの二股掛けをどうするんだと決心に迫られているのだが「あちら」側は皆、その国から出稼ぎ三月の予定だが、行った先には元の恋人がいて、いずれもフラート君より万事に優秀な方で、フラート君はもうこれっきりの危機にある。その証拠に「あちら」君からは三行半にも等しい「ふたりの未来について、答えを聞かせてくれ」が投げかけられる。それが午後4時で出発まで3時間、フラート君は心の整理と「こちら」君へのシフトの可能性の模索にも迫られる。
 こうした急展開には必ず拙い展開がつきもので、3フラート共に「こちら」君のパートナーとのコンフリクトで大やけどを負ってしまう。

 このような大枠でフラート3君らは結局どこに行きつくか、その三者三様がおもしろい。誠の在処といったが、NYでは「あちら」に向かって空港で。ベルリンでは第3の道へ。東京では「あちら」君が戻って来てという具合だが、さすがに大やけどするくらいだから「こちら」側に近寄るのは最早剣呑という事だ。
 なお、軽佻で浮気者で尻軽なフラート君だが、こうした大やけどの結果、退路が断たれてそうなると言い切ったものでは決してない。それはそれぞれの3時間後、NYでは自分の想いの深さを見極めそれに賭けるべく告白のため空港へ向かうのであり、ベルリンでは2戦2敗のあと第3の男の出現に何かが芽生えてしまうのかという際に立つわけであり、そして東京では大やけどの失意のフラート君のもとに監督は映画"FLIRT/フラート"まで携えて戻ってくるわけで三者ともに発見が、自分の本心、第三の相手、相手の本心と三様で見出せるのである。

 我ながら強引な解釈と思うが、この映画はそもそも変奏の楽しみという一種の遊びをフラートな三人を通じてやっているのであるから、気楽に解釈も遊んでしまうのがいい。
 では、この映画の要素としての遊びとはどんな事かといえば、三者ともに挿入演技が米独日各様で織り込まれているのがそうである。NYでは「こちら」の旦那の銃撃のあとの女性のひとりダンスが突発事の衝撃さめやらぬ様を表現し、ベルリンでは全き挿入劇『ブラック・フラート君の独白を受けた三労働者によるフラートな奴の愛を巡る弁証』であるが、これが止揚しないところが暗示的である。そして日本では「こちら」氏演出の舞台稽古風景のなんだろう?山海塾もどき?これがまさしく当時の現代日本風なのかも知れない。ことに日本編では警視庁まで現れて刑事ドラマの人情篇のような味わいまで紹介してくれているようで可笑しい。しかし、警視庁の手配なしには監督がフラート君のいる病院に立ち戻ることはできなかっただろう。そうした辺り、虚実ない交ぜであるがおもしろい目配りで趣向に富んだいい仕上がりになっている。
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