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肉体の悪魔のkojikojiのレビュー・感想・評価

肉体の悪魔(1947年製作の映画)
3.6
「夭折の天才」と呼ばれる人には、その「夭折」いう言葉が呼び覚ますイメージにどうしても心を動かされてしまう。若い頃の私は特にそうだった。
「夭折の天才」で思い浮かぶのは、例えば数学者だったら「エヴァリスト・ガロア」、画家だったら「エゴン・シーレ」日本の「青木繁」、音楽家だったら誰だろう。私は「尾崎豊」しか浮かばない。詩人だったら「アルチュール・ランボー」と言いたいところだが、彼は死んでいない。消えただけだ。「キーツ」日本の「中原中也」「立原道造」。我らの映画界なら「ジェームズ・ディーン」「ブルース・リー」日本なら「赤木圭一郎」だ。剣士なら「沖田総司」これはオマケ😄

そんな中でも特に、私が「夭折の天才」と言ったらまず思い浮かぶのが、この映画「肉体の悪魔」原作者レーモン・ラディゲだ。14歳の頃から詩を書き始め、詩集を発表、その後小説の方に重心を移し始め、18歳の時自分の経験を元に本作を書いて、20歳の時に発表している。すぐに注目の作家とになり、そして2作目の「ドルジェル伯の舞踏会」を書いた。しかし、その12月には亡くなり、この小説が遺作となってしまった。20歳の若さだ。小説は、私の記憶では非常に素直な文体で読みやすかった。(もちろん日本語訳の話だ。)18歳でこれが書けるその才能に驚いた。まさに「夭折の天才」なのだ。若かりし頃の三島由紀夫がこの作家の虜になり、森鴎外、トーマス・マンに出会うまではなかなかそこから抜け出せないでいたと記している。

#1937 2023年 467本目
1947年 フランス🇫🇷映画
監督:クロード・オータン=ララ
原作:レーモン・ラディゲ
脚本 :ジャン・オーランシュ

1917年。男子高校生フランソワ(ジェラール・フィリップ)は、学校に隣接する臨時の陸軍病院にやって来た見習い看護師マルト(ミシュリーヌ・プレール)と出会う。マルトには出征中の婚約者がいたが、フランソワの大人びた言動と無邪気な情熱に次第にひかれ、2人は愛し合うようになる。やがてマルトの婚約者の帰還が決まるとフランソワは彼女のもとを離れ、マルトは婚約者と結婚するのだが…

原作の主人公は14歳から15歳である。所謂マセガキの話だ。早熟のラディゲだから、実際にこんな経験もし、小説も書けたのだろう。三島由紀夫がどう転んでもこれは無理だったに違いない。

映画の中でも「高校生」だとか「子供」「未成年」と言っており、10代の設定であることは間違い。このフランソワを演じたのは当時25歳のジェラール・フィリップである。例え駆け出しの俳優とはいえ、さすがに無理があった。したがって、原作のイメージで観てはいけない。映画は映画として楽しむべきなんだろう。年齢は忘れて。

若さである。フランソワが夫のいるマルトに夢中になっても、それはやむを得ない気もする。この場合は、女性がブレーキをかけるべきだったんだろう。しかし、ここまで愛してしまったら、そんな常識も通用しないか。

ある意味単純なストーリーなのだが、その時その時の二人の心理状態を楽しんでいたんだろうなきっと。振り返るとこんな話が中学、高校時代は好きだったなあと思う。

それにしても悲しい話だ。めぐりあいそのものが不幸なのだと思う。この話は行き着くところまで行くしかないのかもしれない。そんな気持ちで観た。ラディゲの死を予感させるような悲しい結末が心に残る。
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