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秋津温泉のkaomatsuのレビュー・感想・評価

秋津温泉(1962年製作の映画)
3.5
今度いつ逢えるかも定かでない、男と女の別れ際。何度も振り向くべきか、一切振り返りもせずにサッと立ち去るべきか…。駅のホームで、妻子ある河本(長門裕之)を見送る温泉旅館の女将・新子(岡田茉莉子)は、感情を押し殺して後者を選びつつも、動き出した列車の車窓から自分を呼ぶ河本の声につい反応してしまい、列車を追いかけて走り出す。未練を絶ち切れない、男女の心の抑制と、そこから溢れ出る感情のほとばしりが繊細に綴られた、恋愛メロドラマの60年代型スタンダードといえるのが本作だ。

終戦間近、結核を患い生きる希望を無くした河本は、たまたま列車で居合わせた女性が女中として働いている岡山県の秋津温泉・秋津荘に立ち寄り、療養する。秋津荘の女将の娘・新子は、結核に冒されて苦しむ河本に同情すると共に、彼の世話をし始める。河本もまた、玉音放送で日本の敗戦を知り泣き崩れる新子を抱き締め、二人は愛し合う。河本は少しずつ快復するが、宿に住み込む河本を快く思わない女将は、彼を追い出してしまい、新子は悲嘆に暮れる。やがて戻ってきた河本は、以前持っていた自殺願望もどこ吹く風、結婚し、女性にもだらしないダメンズに成り下がるが、そんな河本への想いを絶ち切れない新子は、彼が秋津に訪れるのをひたすら待つ。そして河本は、自分の都合のいい時だけ新子に逢いに来る。やがて河本は岡山から東京へと転勤。新子は、亡くなった母の跡を継いで、一度は旅館の女将になったが、数年ぶりに河本が秋津に訪れると、新子は旅館を廃業し、ひっそりと離れに暮らしていた。夜、一緒に自殺しようと言う新子に対して、バカなことを考えるなよ、と突っ跳ねながら、体を求める河本。そして翌日…。

岡田茉莉子が、映画出演100本を記念して自ら企画し、生涯の伴侶となる吉田喜重監督にメガホンを依頼。ストーリーそのものは何の変哲もない、男女の腐れ縁を描いた古いタイプのメロドラマだが、舞台となった岡山・奥津温泉の四季折々の絶景に、岡田茉莉子の究極の美が相まって、きわめて耽美的な映像に仕上がっている。本作で岡田茉莉子は、前半は健気で感情豊かに、河本が去ってしまった後半では打って変わって、氷のように硬く冷え切った表情を見せており、新子の心の動きに連動した多彩な表現力の振れ幅には驚かされるばかり。吉田喜重監督はちょうど本作の前後あたりから、松竹の小津イズムに反発し始め、松竹ヌーヴェルヴァーグの中心人物として頭角を現していくのだが、皮肉だなと思ったのは、反発し、古いものとして否定していた小津作品よりもさらに古色蒼然とした題材を、本作で堂々と扱ったことである。しかも、風景などは安定の小津風カットを多用し、古き良き松竹映画の基準とも言えるオーソドックスな作風にこだわっている。もしかしたら、それは吉田喜重イズムというよりも、むしろ本作を企画した岡田茉莉子の意向によるところが大きかったのかもしれない。長門裕之のダメンズ感は悪くないが、演出として、河本の心中を台詞でペラペラ安易にしゃべらせ過ぎたのが、かなり説明的過ぎたきらいがある。そのせいか、河本の心理的な葛藤やためらい感がリアルに見えてこなかったのが少し残念。しかしながら、美しさだけで酔えてしまう、貴重な日本映画の一本であることは確かだ。(敬称略)
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