ナガノヤスユ記

賭博師ボブのナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

賭博師ボブ(1955年製作の映画)
4.0
今年の3月、仕事でモンマルトルにほど近いパリ17区の東側に半月ほど滞在した。土日は休みだったので、昼と夜に一度ずつ、なんとなくモンマルトルの方まで足を伸ばした。そうして突如街中に現れるキャバレー・ムーラン・ルージュの妖しく異質な存在を眺め、その周囲に広がるピガールの醸成する猥雑な歓楽街の雰囲気を味わう。そこからは急な勾配の坂を一生懸命に上がっていく。いくつかの雑然たる土産物屋、頑固そうな親父が構える芳ばしいチーズの量り売り店、映画『アメリ』のヒットに恥じらいなくあやかるブラッスリーやマルシェ、等々のさりげないランドマークを横目に、のぼり続けることおよそ10分。ただでさえ少ない現代的な建物がほとんど姿を見せなくなり、不規則な放射状に広がる古い街並みの中心へとたどりつく。かつてゴッホやマティス、ルノワールにコクトーといった面々がアトリエを構えていた小さなアパートと、それらが所狭しとひしめき合う石畳の坂道。坂と坂の交じり合う道の果てには、遮るもののない空がつながる。これぞまさしく私たちの想像したモンマルトルの街の景観である。いまは亡き偉人たちが行き交った日々よりすでに1世紀以上。その中央に位置する小さな広場には今でも、「きたるべき発見」を待つ無名画家たちが週末に集い、かつてはいなかったであろう観光客の群衆に相対す。ある者は似顔絵を、ある者は純朴な風景画を売って、見物人たちの知的欲求に応える、あるいは観光モニュメントの一部と化す。
19世紀の半ばから世紀末にかけて、安アパートに住みつく芸術家たちの街として栄えたこのエリアは、第一次大戦の前後期にかけて観光地化と住宅価格の高騰が進み、それにともなって芸術家たちは、モンパルナスに代表される左岸地域へと移り住んでいったという。
モンマルトルに暮らす賭博師ボブは過去の時代の遺物。かつてのようなツキの強さはなく、突如舞い込んだ起死回生、一世一代の大博打にでるが、その計画にもあれよあれよというまに綻びが生じていく。ノワールとはいうが、通底するビートにシリアスな犯罪映画の趣はなく、どこか牧歌的なモンマルトルのかつての暮らしと、落ち目のギャングたちの悲喜劇的な葛藤、哀愁が描かれている。この街で生き残るために必要なのは、完全で抜け目のない計算高さや狡猾さ、緻密な策略や周到さでもなければ、強力なコネクション、はたまた腕っぷしでもない。うつろう時代の境目をしなやかに生き延びていくユーモアと、あとは運任せだ。乗り損ねたやつは、老いも若きも死んでいく。あくまで冷徹な、ゆえに粋としかいいようがない、街を漂う空気がこの映画の主人公。
かつてない強盗計画に取り憑かれる瞬間のボブの表情を捉えるドリーアップが秀逸。