YasujiOshiba

籠の中の乙女のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

籠の中の乙女(2009年製作の映画)
-
U次。23-141。キャッチアップ。なんだろこの感覚。不思議な会話のやり取りに引き込まれると、破壊された言葉と破壊する言葉が飛び交う場所で、甘いささやきの向こうに吐き気を催すような悍ましさに鷲掴みにされる。イメージそのものはそうでもない。言葉とイメージと音の組み合わせがなせるワザ。

ランティモスの作品は『聖なる鹿殺し』(2017)についで2本目だけど、次々と賞を獲得してゆく理由はよくわかる。ブニュエルやフェッレーリを思わせるからだ。

なにしろある意味コメディなのだ。電話が塩だったり、プッシーが明かりで、ゾンビが小さな花だったりとき、笑えばよいのだろうし、『ロッキー』(1976)や『ジョーズ』(1975)が思い浮かぶモノローグや、不気味なバレエから『フラッシュダンス』(1983)の引用へと至るくだりもそう。

けれどもその笑いは「バカバカしい」(assurdo)がゆえに不条理(assurdità)に達している。なにしろ言語のバカげた用法が、じつは権力の暴力のもとでの変容だったことが明らかになってゆく。ただバカげているところから、バカげたことを強いられていることへの笑へと次元があがる。

笑いの次元があがったところで、ぼくらが目の当たりにするのはグロテスクな人間のありさま。一見すると愛に満ちた平和な場所が、じつのところ抑圧と服従の危ういバランスの上に成り立ち、権力者の愛はいつでも暴力となり、新たな暴力を呼ぶ。それでもバランスが保たれるのは恐怖があるから。しかしその恐怖の正体は、あろうことか「ネコ」という言葉。

笑えないネコなのだけど、それでもネコはあくまでも言葉。その言葉は実体を指すのではなく、単に「人の声」として力を持つ。声は呼びかけ呼びかけられる。声は人と人の相互作用のなかで運動する。呼びかけられることで人は支配され、呼びかけることで支配するのだが、それだけではない。呼びかけながら、実のところは呼ばれている。呼ばれながら呼びかけている。それが人の声なのだ。

その声が人のものであるかぎりで、身体とともに変容してゆく。身体の変化は関係を変化させ、それとともに人の声は展開してゆく。声は止まることがない。発せられては消え、消えては発せられる。だからこそ声は、支配を続けるためには、新たに呼びかけ続けるほかない。

しかし、拘束される身体もまた変化する。呼びかけはそのなかで新たな呼びかけとなる。拘束する声は、拘束される身体からの声にとなって立ち上がり、運動をさらに展開させ、新たなバランスを要求するのだ。

このグロテスクな寓話は、ぼくたち自身の内部にある洞窟の奥深くの場所が明るみに出たもの。だから93分という長さがよい。そんな場所には長く留まりたくない。でも、そこがどんな場所なのかは知りたい。それには十分の長さ。原題のKynodontas は「犬歯」の意だが、ネコとイヌのグロテスクな寓話は、93分で十分というわけだ。

ところで、良い子は決して車のトランクに入っちゃだめ。入ったら自力では出られないのが普通。調べてみると、最近ではトランク内部に緊急用のリリースレバーがあるものもあるという。でも、あのベンツにはたぶん、きっと、ない。だから、でられ、ない。
YasujiOshiba

YasujiOshiba