イホウジン

ミッドナイト・イン・パリのイホウジンのレビュー・感想・評価

ミッドナイト・イン・パリ(2011年製作の映画)
3.4
夢で現実が喪失するホラー映画

今作の主人公はまるで「インセプション」のディカプリオのようだ。夢と現実が交錯する世界に立ち入って己の中の内なる自分を見出して、最後は夢であれ現実であれ“最適な”世界に暮らす。IMAXカメラこそ使っていないが、物語にはけっこう近いものがある。しかしながら、この映画と「インセプション」を決定的に分けるものがある。それは主人公が夢を否定するかどうかという問題だ。そして今作の主人公は最終的に永遠に夢を見続けることを選んだのである。夢を夢と割り切った「インセプション」と、夢を現実として捉えて生きることを肯定するこの映画の対称性はとても興味深い。
そしてその結果として今作で起こってしまったのが不倫の容認という胸糞な事態である。よく言えば主人公はロマンチストでいつまでも理想形を追い求める人間だが、それを結婚制度に当てはめてしまえば単なる浮気性のクズだ。主人公は20年代パリという夢の中で女性と何股もかける文化人に囲まれたことで、現代的な価値観を見失ったように見える。確かにそれは彼の小説の執筆意欲に繋がったが、その過程で現実世界に起こった出来事は悲惨である。一概に他の現代パリの登場人物が悪くないとは言わないが、未来へ進みつつ夢を妥協することを放棄し、永遠に自己満足で世界が成立する世界に引きこもることはかなり危険なことである。このことは、歴史上の,そして現代社会の「保守反動」という言葉に帰結する。
1つ確かなのは今作で深夜に起こった出来事は全て“夢”でしかないということだ。舞台である「エコール・ド・パリ」は世界恐慌と共に呆気なく終焉を迎えるし、劇中に登場するダリやマンレイは後に(主人公にとっては嫌な現実である)アメリカに想いを寄せていくこととなる。“夢”の中では永遠不滅な存在であったとしても、リアルに存在していた時間は歴史上のほんの一瞬である。このギャップの気持ち悪さは日本における「三丁目の夕日」と同じような話だろう。だとすれば今作は「オトナ帝国の逆襲」においてヒロシが万博のハリボテから抜け出せなかった世界線であり、それはかなり恐ろしい話である。今作の多幸感の虚構を暴くと、残るのは強烈な気持ち悪さと虚しさだけである。

「過去に学ぶ」ことと「過去に生きる」ことは大きく異なり、後者が歩むのは新しい価値観の否定である。今作を教訓に、改めてノスタルジーには警戒しなければならないと痛感した。
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