ほーく

プルガサリ 伝説の大怪獣のほーくのレビュー・感想・評価

プルガサリ 伝説の大怪獣(1985年製作の映画)
3.6
蔵出しレビュー。
時は、2001年3月14日

【悪因悪果】
悪い行いが原因となって悪い結果が生ずること。


邦題「プルガサリ 伝説の大怪獣」
原題「PULGASARI」
評者 ほーく
評価 4
ひとこと 一度は観ないといかんでしょ。 

評者 マキトモ
評価 1
ひとこと ただし私個人は喰い入るように見た。見ごたえはある!演技も脚本も不満だが、圧巻はディテールだ。


<コメント>
圧制を強いる権力者に虐げられた民衆が、伝説の大怪獣プルガサリに導かれて勝利する、というストーリーは、現実の北朝鮮をも連想させる、かなりキワドイものだった。また①怨念から生まれたプルガサリが②民衆の守護神として暴君を倒し、③勝利の後に一転、重荷になって民衆を苦しめる、という重厚な展開。そして愛する者を次々と失うヒロインの悲しみ…。あらすじだけ読めば、明らかにB級以上を狙った意欲作なのだが…。
だが、いかんせんキャラクターに語彙が無い。というのも、ほとんどのキャラクターに人格が設定されていないから台詞が膨らまないのだ。結果、脇役の会話の多くが状況の説明だ。また伏線や暗示などの、場面の橋渡しの役を果たす脚本上の諸概念が欠落しており、場面が切り替わる度にシナリオがブチ切れになる。展開が煮詰る度にヒロインの悲痛な顔がアップし「プルガサリぃ!!」を叫んで場面がブチッと切り替わる。この種のお茶の濁し方が多すぎる。冷静にワンシーンずつ見ると結構スゴイことをやっているのに、現代日本で見ている観客には、その凄みが全然伝わってこないのは、実に惜しいことだ。
そんな本作で最も印象的なのは、「ディテールの凄みを、容赦無く使い捨てにする奇妙な贅沢さ」である。これこそが、現代日本に住む我々にとって、本作から得られる最大の快楽ではないかと私は考える。 この贅沢さは、至るところにちりばめられている、いや、「取って付けられている」というべきか。「※さっきのアレは何だったのか!!」という衝撃の連続である。
たとえば、飢えた農民兵が、馬を裂いて生で食べるシーンがある。さり気なく画面の隅に馬の生首が転がっていて、どう見ても、さっきまで乗っていた本物の馬の内臓を、手掴みでむさぼっている以外見えないにもかかわらず、俳優たちの顔が福々しいものだから、殺伐とした感じがまるで無い(撮影現場は壮絶だったはず)。後のシーンでは、飢えたことなど忘れて農民兵達は元気に戦っていたのだった(※↑を絶叫)。また、王宮をプルガサリが破壊する短いシーンでのこと。王宮の模型は内部に至るまで緻密を極め、内側に倒れてくる細い柱の一本一本にまで唐草模様が書き込まれていた(このシーンは出色である)。撮り直しが効かないシーンだから、映っていない一本一本の裏側まで模様(多分手書き)が書き込まれていたはずだ。これが、ほんの数秒のシーンである。妙に芸術的な「獅子砲」や「将軍砲」といい、本作の美術担当は、余程の頑固者に違いない。もちろんこれらのセットは数十秒映って、使い捨て。大量の火薬、1万人のエキストラ、農民が城壁を登る数十秒ほどのシーンでは、特殊部隊とおぼしき連中まで動員され、とても「農民」とは思えない手際の良さで壁面を登っている。残念ながら、どれもシナリオ上での位置付けが雑で、印象に残りにくい。
監督は韓国から拉致し(後に亡命したそうだが)、特撮スタッフは日本から招聘した。金を惜しまず、細部に至るまで(「まで」というより「ほど」)徹底したこだわり。大作であり、また力作でもある。だが多くの脇役に人格の設定が無く、各シーンの意味がバラバラになっている脚本の貧しさが、娯楽映画としての本作の限界を厳然と規定している。カメラアングルも工夫の余地がある。多くの観客は、妙にスゴイがつまらないの一語で本作を片付けるだろう。
こういう映画が国家予算で作られた、という現実の方が、よほどドラマチックではないだろうか。大規模動員とゴリ押しと莫大な予算と、担当各位の妙に視野の狭い情熱がゴッタ混ぜになったであろう、撮影現場のドタバタを想像しながら本作を見ると、もう画面から目が離せない。彼の国の国情を鑑みて本作を憂える(長くなるから止めておくが)のも一興だ。本作は「深読み派」以外の人には、決してお薦めできる作品ではないが、見るなら、是非高細度画面で画面の隅々まで、頭に叩き込みながら、見るべきだ。
役者の表情や演技が大仰なプロパガンダ演劇調なのと、技術面での造りが古い点は、不問に付したい。
(マキトモ)
ほーく

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