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プルガサリ 伝説の大怪獣のccのレビュー・感想・評価

プルガサリ 伝説の大怪獣(1985年製作の映画)
5.0
つまり私が見たい怪獣映画とはこういうものなのである。

朝廷による圧政に苦しむ農民達と、無念の獄中死を果たした鍛冶師の願いから生まれた怪獣プルガサリが協力し民衆蜂起による革命を成功させるという何とも左翼の喜びそうな映画である。ただイデオロギッシュなだけでなく、薩摩剣八郎ら日本のスタッフ協力の元撮影された特撮などは圧巻。プルガサリはゴジラなどに比べればかなり小さい怪獣なので自ずと建造物が着ぐるみよりも大きくなるわけだが、これがかなり作り込まれており迫力がある。またプルガサリが農民達の味方であることをいいことに、「触れられる」怪獣なのも面白い。先に述べたようにさほど大きな怪獣ではないため、実寸サイズの足のセットなどを作って農民たちがそれに触れたり、足元から声をかけるシーンなどが撮れるのである。これが特撮の上手さ以上にプルガサリの存在を視聴者に感じさせる点になっていると思う。成長過程のプルガサリが(鉄を食べて大きくなるという設定のために)ドアの鍵を食い破ってしまうシーンなども、ミニチュアでの撮影なのかと思えば着ぐるみに合わせた3〜4メートルほどの巨大なドアのセットを作ってしまっている(このシーンは10秒ほどしかないのに)というのだから力の入れようには感服してしまう。

革命を成功させたらさせたで、鉄を食べるプルガサリを農民たちが持て余してしまう点なども興味深い。ついには食べさせてやる鉄がなくなり「このままでは他国に侵略し鉄を略奪する必要さえ出てくる」と来るのである。プルガサリを何の比喩と捉えるかは人により分かれると思う。革命家と捉える人もいるだろうし、もっと直接的に、軍事力などと捉えてもいいだろう。農民たちは文句を隠しきれずにいながらもこの怪獣を受け入れようとするが、生みの親の1人である鍛冶屋の娘が自らを食わせることによってプルガサリの生命は絶たれてしまう。教示的な結末ではあるものの、怪獣の顛末に責任を持っているのは素晴らしい点である。ただの民衆革命ものではなく、怪獣が怪獣としてそこに介在する意味があると思う。

皮肉なのはこの映画が北朝鮮で製作されたものであり、「政治的な理由」で公開に至らなかったため未だに視聴手段が限られることであろう(私自身も特撮マニアの知人のコレクションに頼れなかったらアクセスできなかった)。言い方を変えれば怪獣映画「如き」の政治的内容がそこまで重く見られているということでもあり、ますますこの映画の意味はあると思う。幸い日本は専制主義国ではないわけだから、怪獣映画の政治性にそこまで目くじらを立てる者もいないだろう。それを逆手にとって大いにやればいいと思うのである。『ゴジラ』も『ガンダム』もマニアのフェティッシュを満たしていればストーリーや思想などは素通りしてもらえる(無論届く人には届く)わけだし、厚顔無恥なレイシストが『ゲゲゲの謎』に「どハマり」できるのだから、大丈夫である。もはやサブカルチャーが資本や国家に抗するものでない時代だからこそ、大部はそれに迎合しながら作品に込めたものでこっそりと中指を立てることは可能なはず。そういうカウンターカルチャーの在り方があってもいいだろう。そのためにもプルガサリのような怪獣が必要である。
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