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この空のある限りのotomisanのレビュー・感想・評価

この空のある限り(1964年製作の映画)
4.0
 生き別れとなった母親に会いたいとはどんな心境だろう。あるいは、どこかで自分と会う事なく暮らしているその人の、未だ現にいるかもしれない、いなくなる間際かも知れない、という。そんな母親の不在、同時に自分(映画では森)が不在でいられる母親とはどんな人なのか?そんな想像から発してどんな思いが迷い出るのだろう。現に死に別れてしまうと一段と、さらに一段と想像が遠退く気がする。

 寺山も久々、母親と同居ののち、九條との結婚で母とはまた別居を始めたころ、三十前くらいの事である。生きてきた様々な場面で母親がいないという事の記憶にいまさら現にいるその人を埋め込むわけにはいかないし、現れたその人を「母親」としてどう扱えばいいのだろう。

 この物語はそうやって想像が並行しながら、マンボウの日向ぼっこのような亭主の急死を今か明日かと恐れながら跳ね返り娘にはらはらしながら、「母親」の中の自分の居場所のあるかないかに慄くような忙しさを感じる。この忙しいと云うのがその日常生活の忙しさでもあり、その生活には明日があるというか、どこか明日もこうして今日を迎える事の期待感というか、昨日失った「母親」を振りかえるような気の置けない毎日に生きる事で励まされるような感じがある。

 出会ってしまえば、いる事がいつの間にか当たり前になってしまう。あそこで「おかあさん」と呼んでしまえば、それを聞いてしまった反動のように何かがなくなってしまうような妙な寂しさが溜まってくるのはどういう事だろう。映画の中はそれで幸せが増えてゆくようなのに、である。そこがあるいは、だからあんたも呼びかける誰かを持てという話なんだろうか。
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