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ヌーヴェルヴァーグのTnTのレビュー・感想・評価

ヌーヴェルヴァーグ(1990年製作の映画)
4.8
 ヌーヴェルバーグとは「新しい波」。レマン湖を舞台とした、映像も音も美しすぎる作品。主人公の再生の物語であるとともに、ヌーヴェルバーグ時代の反復でもある。1990年という節目に、今作品は80年代以降の音と映像の試みを完璧に仕上げたといっていいだろう。

 ただ、やはり一回見ただけじゃわからないし、あらすじ見てやっと内容を把握した。それから見ると、実に細かい演出がなされていて、しっかり伏線があったりもして、実に映画的であることがわかる。ゴダールの中でも特に映画的な演出が多いのは、彼なりに一度映画の仕組みを見直そうという気があったからなのか。ヌーヴェルヴァーグ時代、それは映画を映画によって再構築、自己分析することであるなら、今作品の積極的な映画らしさの取り入れもまさにそうではないだろうか。

 主人公を演じるのはアラン・ドロンで、ロジェという浮浪者からリシャールという男前に復活する。この演じ分けのギャップ。また、ドロン出演の「太陽がいっぱい」に似た演出もあり、ドロンありきの映画であるとわかる。ドロン自身と演者としての彼との距離、また、外見が同じであれば復活はできるのかという問題がここにうまれる。

 そんな感じで、映画史を振り返るかのようにいろんな映画への目配せがあるように思える。ネットで阿部和重による今作品についての覚書が掲載されており、そこではタルコフスキー作品の引用が伺えるという。ある女給がグラスを持って行ったり来たりするシーンがあるのだが、確かに「ノスタルジア」のあのラストシーンのパロディな気がした。また、言及されていなかったが、ドロンの相手役のエレナは、「ノスタルジア」に出演していたドミツィアーナ・ジョルダーノであるのだ!妙にワンカット移動撮影が多い今作品は、タルコフスキーのゴダールなりの再現、またはパロディなのかもしれない。または、妙に崇高な眼差しを送られるタルコフスキーのショットの脱神聖化、解体なのかもしれない。
阿部和重【音楽/映画覚書】第6回『ヌーヴェルヴァーグ』リンク

https://www.arban-mag.com/article/4137

 移動ショット。今作品ではある意味カメラが横移動することに意味づけがある。それはまさしく、波としてのカメラだ。波の音が、または波の映像がはさまる時、カメラはただの移動ではなく、波として機能する。また波自体を移動ショットで撮る時の不思議さ。そこにどこまでの含蓄があるかは伺うことができないが、漂うゆったりとしたリズムが心地よい。そういえば、あるシーンで森を浮遊するあのカメラワークも、タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」へのオマージュなのでは?

 今作品は、音だけでも成り立つということで音版ヌーヴェルヴァーグのCDが存在する。ゴダールらしからぬぶつ切りの音編集は鳴りを潜め、かわりにフェードやうまいこと配置された音が、一つの音楽としての様相を成す。言葉も楽曲も効果音も全ては単に音として還元され、編集によって演奏されるにすぎない。ジョン・ケージが、音楽はいつかノイズや自然の音からも演奏されると言っていたのを体現したといっていいだろう。
 
 素晴らしい映像と音のマッチ。例えばロジェがエレナの車にはねられるシーン(実際はねられる描写はないのにそうとして描く強引さと演出力!)では、バックで流れる弦楽器の音が、次第にフェードでクラクションの音に変わっていく。またこのショットは多重に反復されそのけたたましいクラクションとともに私たち観客に決定的な出来事であることを印象付ける。ここでまた唐突に挟まるパティ・スミスの曲も良い。その楽曲「distant fingers」が予兆するかのように、ロジェとエレナの手は結ばれる。そこで車のエンジンが加工された(?)ゴロゴロという音が強い結びつきを決定づける。そんな感じが全編に渡って紡がれる、至高の作品です。それでいてもはや、映像のみでも音のみでもいける映画とゴダールは言っている。メレディス・モンクの歌声と鳥の声の調和も最高!
 
 手の映画。今作品の冒頭では、意味ありげに差し出された手の映像が映る。同時期にゴダールが「映画史」の第1、2章を作っていたこととも関連すると思われる。「イメージの本」にも編集台でフィルムとフィルムをつなぐ手が出て来た。今作品の手は即ち、編集のメタファーである。映像が結ばれるように、男女も結ばれる。全てを繋ぐものとしての手。救う手。映画こそ希望であると信じるゴダールのこの信頼は、繋がれることに対してなのだろう。

 反復。ゴダールは80年代の作品でキリスト的な思想を反映させた映画を作り続けていた。今作品の復活はまさにキリスト自身の物語を反映させている。また「めまい」のような主題である取り違えとも関連している。一度湖にエレナによって沈められたロジェと、今度はエレナを沈めたリシャールと、ショットも編集の細切れさもほぼ反復される。そしてどちらも手を差し伸べる。ロジェはエレナに手を差し出されて沈む。しかしエレナはリシャールが手を差し伸べて引き上げる。同じ行為が反復されるが、全くの再演ではない(再演不可能性)。またロジェがリシャールとして復活できたかどうかは、よくわからない。見た目こそ同じで、エレナは彼のネックレスでロジェの復活だと悟る。しかし、それだけで判断できるものだろうか。映画は「(あれは)別人だ」という他者の声で幕を閉める不穏なものとなっている。おそらく、ロジェが本当に復活したわけではない。これは新たな反復による別人が、ロジェに取って変われるということなのだ。復活とは常に新しくならねばならないということなのだ(ロジェはロジェのままであるが故に、新しくなれない故に、復活はできない)。ちょっとよくわからないけども笑。見た目が同じであればなり変われると思っているのは、「リア王」でゴダールが最後にフィルムを託すのが、自分に似てるだけという理由でウディ・アレンを選んでることからも言える。だからここでいう復活は魂というよりロジェの概念がどう生き続けるかというようなことだと思う。ここら辺が難しい、だからこそこの映画は何度も反復する価値があるのだ。

 ラストと前半のカメラワーク。この映画の横移動は例外を除いておよそずっと右へ移動している。既存の映画の条件からすれば、正の方向に進んでいく。しかしラストでは左へと向かう、負の方向だ。木陰によるフレーミングされた中の人物など映像もやたら陰りがあるし、今作冒頭で木陰を右へと移動するショットと対照的に見える。これのせいで、ロジェが復活したことにずっと陰りがある。エレナが男を取り違えてしまった悲劇の物語という含蓄が残る。楽観的と評されることが多い今作品だが、そう簡単な終わりじゃないのがゴダールらしい。また、部屋のライトが消えていくのを見守る横移動も、点灯しているときは右へ、消えていくときは左の負の方向へと向かう。この部屋のライトは映画の光源の暗喩か。

 そのほかにもダンテを引用する庭師、ゴヤの「裸のマハ」を取引するリシャール、仕事下手な女給が反旗を翻すなど、面白いエピソードも多いが、まだまだ深く考察できていない部分だ。「過去と現在を同じ波に感じた」という台詞がやたら意味深に今も記憶に残る。
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