せいか

暗殺の森のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

暗殺の森(1970年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

1/2、Amazonビデオにてレンタルして視聴、字幕版。
わざわざ4Kにまでしているのやあらすじからもどっしり構えた大作を期待していたが、ずっと肩透かしを食らい続けてエンディングを迎えた。テーマはかなり好きなのだけど、構成や映画シナリオからの表現がすごく好きじゃない。原作は未読なのだけれど、たぶんそちらのほうは楽しんで読めそうな気はしたので、いつか読みたいなとは思った。
あと、美術面は概ね好みで、画面はぼんやり眺めていると美しくもある。作品としての面白さがあればサイコーだったなあと思った。個人的にはつまんないという感想が先立ってしまう。

ちなみに日本語タイトルは『暗殺の森』などと大仰なものが付けられており、さも大戦期のスパイとかそういうのが中心のものかと誤認するが、原題は『Il conformista』なので、いわゆる順応主義者(=ざっくばらんに説明すれば、世の中の流れに流されるがまま、自分というものを持たないこと)の意味であり、少なくとも本作においては端的に主人公を言い表したものとなっている。ちなみに原作小説の原題も同じなのだが、そちらの邦題も忠実に訳出せず、『孤独な青年』としているようだ。
この物語が何を言い表しているかを理解するためにはこの原題は踏まえて観なければならないというか、そうでもしなきゃ余計にわけわからん作品となるかと思われる。むかつく。

主人公がトラウマの原因とするところの少年の頃に男にレイプされそうになって相手を殺してしまったと思い込んだ事件にしろ、ファシズムも終わってからその男が実は生きていたのを目の当たりにしたシーンにしろ、そこが彼にとって重要なものであるというのは本作からはおよそ感じ取れず、結局そういう点も彼にとってはそこまで衝撃的、決定的なものとは言えず、彼の本性はただの順応主義者でしかないのだってこと?みたいな気もするけれど、それを明らかにするようなものでもなく、なんというか芸術的に話をまとめすぎててふわふわしてるというか、そんな気がした(男を発見してから、彼はファシストだ、こいつもファシストだと自分は棚に上げて糾弾するのを含めても)。

冒頭で、盲目の人物がファシズム賛美をする中で主人公(元は彼も盲目だったのが手術で見えるようになったらしい)が、自分は他の人々と同じになりたい、大衆の中に埋もれたいのだと語るシーンだとか、ありきたりな中産階級の女性だからとその人を妻にしたり、その妻は妻で無邪気に何事にも受け身で(かつて年配の人に長くレイプされてきたことも、夫が秘密組織に属していることも、知人夫妻が殺されたことにも)、そのくせ「私は新しい女」なのだと声高に宣言して踊るところとかも(そしてその彼女はファシズムの終わりの頃には中盤までの元気さから打って変わって暗く振る舞う)、そういう皮肉たっぷりで本作の核にあたるだろう箇所は、おおと思ったが、とはいえとにかく退屈にまとめた作品だったというか、その軸となるところをうまく調理してないのでぼんやり観ることになる作品だった。その彼がファシストとして活躍している皮肉だとか、なんかとにかくフワフワ。女性周りとのやり取りも密な作品なのだけど、なんかそこもふわふわ。そのくせ重厚なことやってるようにとにかく見せてくる小手先に腹が立ってくる。

邦題の『暗殺の森』は終盤でパリで交流していた夫妻の暗殺シーンを意識したものだと思われる。この夫妻の夫のほうは主人公のかつての大学での師であり、主人公が彼のもとで卒論を書いているさなかにファシズムのもとで哲学など教えていられないとイタリアを去って行った人物でもあった。主人公は当初はその身辺調査のために交流していたのだが、暗殺するように言われて躊躇しまくってうだうだしているうちに森のシーンに入っていく。森では夫妻の車を足止めした上で他の暗殺者たちもぞろぞろとやってきてまずは夫のほうを滅多刺しにし、次には逃げ出した妻を森の中で追いかけ回した末に銃殺する。
主人公は自分の手を汚すことなくその光景を車内から眺め、ここに至るまでにアプローチを掛け続けていたし、夫と共に移動しないように促してはいた妻のほうが彼に気がついて車窓を叩こうとも、ここに至っては彼女を助けることもせず、殺してもやらずに見殺しにする。なぜなら彼は順応主義者でしかないのだから。
というわけで、つまりは本作の見せ場であることは間違いないシーンなので、まあそれをタイトルにしたのだろう。ファシストたちが敵を大勢で取り囲んでこれでもかと刺したりする卑劣さ、そしてそれを上回る「何もしない」主人公の卑劣さ。

受け身でファシズムに寄り添ってきた彼がその崩壊と共にいよいよ自らの寄る辺を見失って、もはや新しい世の中の波にも乗れずに路地に取り残され、身を売る男が裸で横たわる檻の向こうに腰を下ろす救いのなさ、破滅の描写は嫌いではないけど、いかんせんそうした要所要所以外が気に食わないのであった。

作中ではプラトンの『国家』の中に出てくる有名な洞窟の話が引用されていて、ただの(肥大化した)影を恐れることだとか、洞窟の中のないしは暗闇の中での「声」の重要性だとかを取り上げていてそこも作品の中では重要なものではあるのだけれど、いかんせん本作のようなずるずると話が進むようなシナリオにおいてはイマイチ刺さらないのだなあ。繰り返すようにテーマは好きなんですけど、調理が……。

主人公は普通というものに埋もれたい人物であって、別にファシズムが正しい場所とかなんだとか思ってるとかそれが揺らいでどうのとかいう意識も然程ないと思うのだよな。揺れ動いて直視できないのは別のものであって。
ラストで主人公夫妻の家に転がり込んでいる貧乏人たちが、ファシズムの終わりと共に(妻いわく)掌返しでその崩壊を喜んでいるという描写があるように、主人公の周りには妻含め既にあらゆる形の順応主義者たちがいて、時勢に流されるがままでいるのは珍しくもないものなのだ。ラストでは盲目で元ファシストだった友人も新時代にはしゃぐ人波に飲まれてそのまま流されていく。
主人公の悲しい点は彼自身はそういう波に飲み込んでもらえないことなのだと思うし、それでも彼はたぶん今後も生きている限りはなあなあで生きていこうとはするだろうということだと思う。他の人々のように。あそこから目覚めるということもなさそうだし、彼は孤独なままなのだろう。
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