note

暗殺の森のnoteのネタバレレビュー・内容・結末

暗殺の森(1970年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

1938年、第二次世界大戦前夜のイタリア。哲学講師のマルチェロは、盲目の友人イタロの仲介でファシスト組織の一員となった。13才の頃に同性愛者の青年リーノに襲われたマルチェロはリーノを射殺した過去がトラウマとなっているマルチェロは、世間の波に乗ってファシズムを受け入れ、ブルジョワの平凡な娘と結婚するが…。

過去に見たはずであるが内容を忘れ、フラットな気持ちで再鑑賞。
「ラストタンゴ・イン・パリ」「ラストエンペラー」で世界的に知られるベルナルド・ベルトルッチ監督が弱冠29歳で手がけた1970年の作品。
第二次世界大戦前夜のイタリア、フランスを舞台に、幼い頃の事件を心に秘めた青年の物語であるが、今見ると現代に通ずる「生きづらさ」を描いた人間ドラマの秀作である。
また、撮影監督ヴィットリオ・ストラーロによる全カットがまるで絵画のように美しい色彩と構図の映像に酔う作品だ。

序盤の30分ほどで過去と現在が交錯し、主人公マルチェロの事情が分かってくる。
子どもの頃、同性愛者に誘われたが明らかに自分からキスをしているマルチェロにはその素質があった。
自分がマイノリティだと自覚しているマルチェロは自分は異常なのか?と感じ、多数派になりたかったのである。
同じマイノリティであることの共感か?それとも密かな優越感を得るためか?盲目の友人と付き合いもしている。
しかし、明確な政治的信念を持てず、ファシズムに特に心酔もしている様子のないマルチェロ。
彼は多数派に逃げ、多数派に怯えている人間と言えるだろう。

ファシズム組織の一員となったマルチェロは、大学時代の恩師であり反ファシズム運動の支柱クアドリ教授の身辺調査を任される。
彼は新妻ジュリアを伴い、新婚旅行と称してパリへと旅立つ。

パリでクアドリ教授に迎えられたマルチェロは、その美しい若妻アンナに魅了される。
アンナはマルチェロが夫の身辺を嗅ぎまわるのを警戒する一方で、彼を誘惑もする謎めいた女。
元娼婦で、パンツルックに咥えタバコで明け透けな発言。
ファシズムとナチズムが猛威を振るう抑圧的なこの時代にあって、アンナの佇まいは、性も思想も関係無く自由を謳歌する自立した女性の先駆者に見える。
マルチェロだけでなくジュリアすら誘惑するアンナに、マルチェロは「こうなりない」という憧れが恋に変わってゆく。

間もなく組織の指令は、クアドリの身辺調査から暗殺へと変わり、マルチェロの監視役として屈強なマンガニエーロという男が、ぴったり張り付くようになった。

ここで主人公にピンチが訪れる。
人を殺したトラウマのあるマルチェロは、暗殺などしたくないし、アンナから夫クアドリを奪って悲しませたくもない。
クアドリを殺しておきながら、事情を知るアンナをファシストから助ける訳にもいかない。
アンナと自分が逃げようとしても、自分には自分を愛してくれる妻もいる。
恋と立場と板挟みに合うのである。

マルチェロたち二組の夫妻がナイトクラブに出かけダンスをするシーンがマルチェロの苦しい心境とアンナの自由奔放さを物語るシーンとなっている。
アンナが男役となってジュリアと踊る女同士の官能的なタンゴのダンス。
やがてその2人の熱に当てられた人々がマルチェロを中心に輪を作る。
暗殺を担う上に同性愛者で日陰者のマルチェロが、愛する女性に挟まれて人々の注目を浴びるとは、罪の意識を責め立てるような拷問のようにも見えるのだ。

その夜、クアドリは翌朝パリを発って別荘へ行くつもりだと告げた。
アンナはマルチェロ達も来るように勧めたが、ジュリアがためらうのを見て、アンナもパリに留まることにした。
マルチェロにとってもその方が都合が良かった。
クアドリがひとりで別荘に行けば、その途上で暗殺任務を遂行でき、アンナも救うことができると考えたからだ。
マルチェロはマンガニエーロに翌日、別荘の森周辺で暗殺を実行すると伝える。

遂に暗殺の日を迎え、クアドリの車をマルチェロとマンガニエーロの乗った車が後を追う。
森に差し掛かる手前で、クアドリの車の助手席に何故かアンナがいるのに気づいたマルチェロは焦る。

アンナが尾行してくるマルチェロ達の車を警戒した時、山道の途中で対向車がクアドリの車を塞ぐように止まった。
クアドリが車外に出ると、潜んでいた組織の暗殺者たちが次々に現れ、彼をナイフでめった刺しにする。

本作で一番衝撃的なのは、クアドリの暗殺シーンではない。
愛するアンナを救わないマルチェロの非情さと保身である。
アンナは車を飛び出し、マルチェロに助けを求めるが、彼は微動だにしない。
ここでアンナを助ければファシストたちに裏切り者と見做され、処刑されるだろうし、かといってアンナを自ら殺したくもない。
願わくば森に入り、逃げおおせてくれとアンナに顔を見られてもなお、彼女を見捨てるのである。
愛する人に懇願されてなお見捨てるその冷たさ、保身のための狡さ…。
このマルチェロという主人公には心というものがない。
しかし、映画を見る我々とて、日々保身のためにどれだけ苦心しているかと考えると、マルチェロをクズだとは言いづらいのである。

自分を助けも殺しもしない男に声にならない叫びをあげて、アンナは森へと逃げていく。
そんな彼女の背後から暗殺者たちが銃弾を浴びせ、アンナはやがて息絶える。
一部始終を見ていたマンガニエーロは、何もしないマルチェロを卑怯者だとなじる。
彼はそれでも車中で身を固くしているだけだった。
アンナを見捨てた罪悪感はあるものの、何もしないことでマルチェロは立場を守ったのである。

それから数年後、時代は大戦末期に移り、ムッソリーニ辞任によりファシズムも崩壊する。
街路ではムッソリーニの像が引き倒されて、人々のファシストを糾弾する声が響いていた。
そんな中、体制崩壊を怖がる盲目の友人イタロに呼ばれて街へ出るマルチェロ。
街娼がたむろする界隈に差し掛かった時、マルチェロは信じられないものを見た。

街角で少年を誘惑する白髪の男、それは13才の自分が殺したと思っていたリーノだった。
殺人を犯したトラウマは、皮肉にもマルチェロの勘違いだったのだ。
そして拠り所にしていたファシズム(少数派への過剰な弾圧)も今まさに崩壊しようとしている。
混乱したマルチェロはイタロを置き去りにして走り去り、路地裏にへたり込む。
その放心したマルチェロの視線の向こうで男娼らしき影が蠢くところで映画が終わる…。
ファシズムを捨てたマルチェロが本来の自分に戻るのか?と思わせるようなエンディングだ。

なぜ内容を覚えていなかったか?
映像はいくつか覚えていたのだが。
恐らく、ヴィットリオ・ストラーロ撮影の華麗なる映像に酔い、物語やキャラクターの心理を追うことが出来なかったのだろう。
それほどまでに映像が美しい。
闇ではなく蒼く陰る街並みの中でも、窓の灯りの中には赤や黄色のアクセントが必ずある。
その色彩のアクセントが違和感として映る。
まるで多数派に紛れ込んだマルチェロの存在のように周りと溶け込まずに目立って見えるのだ。
「運命の女」に翻弄されるフィルム・ノワールの形を借りて描かれるのは、差別と保身に怯え震えるマイノリティの「生きづらさ」。
それを弱冠29歳で、美麗な映像の中に哀れな人間性を落とし込んだベルナルド・ベルトルッチ監督の才能に驚いた次第である。
note

note