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ダンサー・イン・ザ・ダークのkuuのレビュー・感想・評価

4.3
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
原題 Dancer in the Dark.
製作年 2000年。
日本初公開 2000年12月23日。
上映時間 140分。
ラース・フォン・トリアーが、アイスランドの歌手ビョークを主演に撮り上げた人間ドラマ。
過酷な運命に翻弄されながらも、息子のためにすべてを投げ打つ主人公セルマの姿をミュージカルの手法を導入して描き、2000年・第53回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞。
その歌声を披露しながらセルマ役を熱演したビュークも女優賞を受賞した。
このように高い評価を得たものの、反面ではイギリスの批評家からは不評で、その後の興行成績に影響を与えた。
今作品が十分に評価されていないと考えたイギリスの配給会社フィルムフォーは、観客がこの映画を楽しめなかった場合、お金を返す保証を提供したそうです。
その結果、観客動員数は大幅に増加し、返金を求めた人はわずか5人だったそうな。
また、ビョークの意気込みは半端なく、強い眼鏡を多用する対策として、彼女はそのシーンで視力を中和するために、逆レベルのコンタクトを装着していたそうです。

アメリカの片田舎。
チェコ移民のセルマは息子ジーンと2人暮らし。つつましい暮らしだが、隣人たちの友情に包まれ、生きがいであるミュージカルを楽しむ幸せな日々。
しかし彼女には悲しい秘密があった。
セルマは遺伝性の病で視力を失いつつあり、手術を受けない限りジーンも同じ運命をたどることになる。

今作品は、何度目かの視聴になります。
一番最初に観たのはビョーク目当てでした。
正直、浅はかな理由やったけど、それ以降は作品自体を楽しむために観ています。
今作品は個人的には2000年の映画ベストであり、今まで見た中で最もパワフルな映画の一つです。
ただ、そう書いてても万人向けとは云えないのかな。
ヨーロッパのアート系映画が好きな人は、きっと気に入るのではと思います(勝手な思い込みかもしれませんが)。
ミュージカルだからということで見るなら、気をつけてほしいかな。
何故なら嫌いになりかねないし、個人的には嫌いになってほしくないです。
今作品の好ましくないと云う点で散見される評の多くが、ミュージカルとしてどうかと云う点を良く目にする。
しかし、今作品ではミュージカルナンバーはミュージカルにするためにあるのではなく、セルマがどう考えているかを示すためにあるんじゃないかと思います。
個人的にですが、小生も子供の頃から、とても辛い出来事に直面した折りは、眠りにつけたら決まって、真逆の幸せな夢を見るし、起きていても幸せな出来事を空想したりした。
それで、どれだけ逆境に耐えれたことか。
もし、小生がミュージカルを子供の頃から愛していたら、セルマと同じようだったのかなぁと。
今作品を例えるならば映画『タクシードライバー』にミュージカルナンバーを入れるようなもので、トラヴィスの心境を見せるためのもので、観てる側を楽しませるためのものではないのかな。
今作品は、主演のビョークの演技とは思えない演技は凄いです。
今作品を嫌いちゅう人が居るのも、多少わかる凄く癖のある映画です。
また、どの俳優も素晴らしい演技を見せてくれますが、中でもビョークの演技は非常に際立っていました。
彼女は驚異的な演技力を持っていただけに、もう演技をしないと宣言しているのは残念でならない。
メッセージ性が強くパワフルな映画を欲してるなら良いけど、純粋なミュージカルが見たいなら、『雨に唄えば』などを老婆心ながら薦めます。
ミュージカル映画では、人が夢を見るように、 ダンサーは踊りだすって哲学者ジル・ドゥルーズ(20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人)が云う。
ミュージカル映画の街や景色は夢のなかにある。それがいくら現実的であったとしても。
ミュージカルの登場人物たちはいつまでたっても覚めない夢を見ている。
今作品でも、突然、工場で働いていた人々がリズミカルな機械音にあわせて歌い踊りだす。
セルマは歌い踊り、踊るのをためらっていたキャシー (カトリーヌ・ドヌーヴ) を夢の世界に誘う。
リズミカルな工場の機械音、レールの上をゆるやかに走る列車の音の緩慢なリフレーン、或所の中でさえも床を踏み鳴らす乾いた靴の音にセルマの身体は共鳴し、彼女は夢のなかを生きる。
世界に満ちた無機質な音響に彼女の身体は貫かれ、彼女によってそれは喜びに満ちた音楽になる。
でも、誰でもそうですが(現実は)、セルマも夢から覚める。
視力をほとんど失っているセルマは、機械で手にケガをし、現実へと引き戻される。
通常のミュージカル映画とは異なるひとつにこの点も加えたい。
ラース・フォン・トリアーは、夢(セルマの夢想)と現実(激務)を明確に区別し、セルマにこの2つの領域を行き来させている。
すべてのシーンが夢ちゅう訳ではない。
それは、夢と現実に対応する映像の質からも明らかかな。
今作品は、ミュージカルという精巧に構築された夢の世界と、ドキュメンタリー風の生々しい映像による現実とで構成されている。
目が見えないちゅうことは、セルマを夢見がちにしていると同時に、彼女の労働、ひいては人生をより過酷なものにしている。
その時は救われるだろうけど、対峙を先に延ばしただけ。
セルマは、自分の目の病気が遺伝性であること、息子もいずれは失明することを知っている。
彼女は息子の手術代を払うために眼病を抱えながらも働くが。。。
苦難は続く。。。
ラース・フォン・トリアー自身が云うように、盲目というのは今作品の『メロドラマ的』な側面であり、強調されすぎてはいけない。
重要なのは、この『メロドラマ』が要求する人生の厳しさを、セルマのミュージカルが肯定していることである。
ラストシーン、現実と夢がひとつになり、現実の中で彼女は歌い始める。
唯一の大きな救いと云えるかな。
このラストシーンは、夢と現実の修復が今作品ではあまり重要でないことを示している。
夢と現実が融合していく過程を臨界点で描いたミュージカル映画と云える。
なら、なんでラストシーンで夢と現実が重なり合うのか。
それは、夢の中でも歌い踊ることが、彼女にとって常にこの世に生きていることの過酷な運命を肯定するものやったからに他ならないのかな。
運命的にセルマは目の病気を受け継ぎ、息子は病気を受け継ぎ、運命的に暴発。。。
セルマのミュージカルは単純な現実逃避ではない。
セルマは世界と共鳴し、世界に響き渡る音に貫かれながら身体の輪郭を失い、どんなに過酷な人生であっても、この世界に生きていることに喜びを感じる。
そうでなければ、セルマ/ビョークのように歌い、踊ることはできないだろう。
逝く悲鳴ではなく、彼女が生きてきた人生を肯定するもの。
だからこそ、セルマはラストの歩みで歌う。
今作品最後から2番目の歌です。
最後の歌ではない。
一度だけ歌われるのではなく、何度も何度も繰り返され、決して終わりを迎えることのない歌。
セルマにとって、彼女の人生は、一度で終わらせなければならないような負の人生ではなかった。セルマにとって、彼女の人生は一度で終わらせるべきネガティブな人生ではなく、この歌によって彼女の人生は何度でも肯定され、喜びとともに享受される。
ラース・フォン・トリアーは、ミュージカル映画への深い理解に基づき、新たなミュージカル映画を作り上げたと思います。
夢と現実を反転させ、最終的に一つに融合させることで、彼は夢を単なる現実逃避ではなく、現実を肯定するものにしたのやと。

        隠れた川
            ジャン・タルデュー

魂の光と影の罠、
浮かび上がった戯れと争い、
苦しみと愛のまなざし、
おお、反映の中で生まれ、
死んだ巨大な焔よ、

歌う吐息に身を寄せる人々、
眠る水に崩れ落ちる大空、

時間の囲いをぶちこわす欲望、
言葉の赴くままに投げつけられた災難、

盗むことにもそのひたむきな従順の横溢、
この生きるものに直近で、支配的な巨匠よ!

それでも時には空間に疲れた現代の精神が、
遙かなる遠回りの後で、立ち止まり、耳を傾ける、

同質で低音の、広大な唸り声が、無限の大地を通り過ぎる、一日の唯一つの一日の下を転がりながら。

わたしの心の直ぐ傍を、でも大地より遠く離れて、 淵の底のように、何千回という反響を繰返して、

記憶の風が樹木の根元や鳥たちの足元のざわめきと一緒に、
わたしには重たい川の雷鳴となって轟く。
kuu

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