晴れない空の降らない雨

ゴルゴダの丘の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

ゴルゴダの丘(1935年製作の映画)
3.8
 スタイルやジャンルに余りこだわらない量産ぶりが逆に災いしてか、今では忘れられた感のあるジュリアン・デュヴィヴィエ監督のなかでも、さらに忘れ去られた感のある宗教映画の1つ。イエス・キリストのエルサレム到着から処刑・復活までを、聖書に忠実ながらもダイナミックに描く。
 豪華なセットと膨大なエキストラを使った大作であり、流麗なカメラワークなどの美点も光る隠れた良作だった。有名な台詞や場面がたくさん出てきて楽しめる。
 
■空間の連続性
 冒頭、ローマ時代の地図「イスラエルの民は自由ではなかった。だがエルサレムの都は栄華を極めていた」というナレーションとともに、町の遠景を描いた書き割りを延々とドリーで映していく。なんと100秒間もの長回しだ。
 終着点の大神殿で画面がディゾルブし、同じ背景をもったセットにショットが切り替わる。ディゾルブの使用は、カットを意識させないことを狙っている。その次も、カットのときに障害物を利用することで、あたかも単に我々の視界が壁や柱に遮られただけであり、カメラ自体はそのまま移動しつづけているかのように見せかけている
 やがて現れる、おびただしい群衆は、その後も画面を支配しつづける。カメラは流れるように、彼らと石造りの背景を画面に収めていき、空間の連続性を保つことで、実在感を与えようとしている。
 
■主役は群衆
 本作の主役はイエスではなく群集なのではないかという印象は、おそらく正しい。奇妙なことに、始まってから当分のあいだ、イエス・キリストの姿がはっきりと見えることはない。品物の並んだテーブルをイエスがひっくり返していくシーンにしても、彼の身体の一部が映り込むことはあっても、映画が見せたいのは浅ましい商人の反応のほうである。
 エルサレムの民は当初イエスを歓迎するが、司祭らに扇動されたり買収されたりして、すぐに掌を返して罵倒の嵐を浴びせるようになり、彼を死刑へと追い込む。劇中における群衆描写は苛烈である。全体のうごめきのロングショットと、個々の醜い嘲笑のクロースアップとを往還することで、その表情は個人でなく群衆全体の表情であることを映画は印象づけようとしている。トーキーの導入がこの演出を強化する。絶えることのない罵声がこの往還に重ねられると、その罵声の主体もまた、個々人というより群集全体に帰属される。理性は失われ野蛮へと退行してしまったかのようだ。
 「その血と責任は我らとその子孫にかかってもよい!」という聖書にもあるセリフは、その後長く続くヨーロッパのユダヤ人差別を予告している。もし本作がドイツ映画だったら、戦後は間違いなく反ユダヤ主義の烙印を押されていたことだろう。
 この頃の映画にはよく群衆が出てくる。エイゼンシュタイン的な革命的群衆か、本作のように権力者にたやすく操作される従属的群衆を描くかに大きく分かれており、作り手の政治的イデオロギーが伺える。本作のペシミスティックな宿命論的世界観は当時の映画によく見られる傾向で、時代的思潮といえそうだ。群集というテーマは、現代では、ネット炎上やポピュリズムの蔓延によって、再クロースアップされている。
 
■イエス
 さて、結局イエスの顔がはっきりと拝めるのは20分以上経過してからだ。
 かの最後の晩餐のシーンである。本作は、ダ・ヴィンチの作品に倣ってシンメトリーの構図でこれを捉えている。ただ、おそらく画面に全体を収めるのが難しかったためだろう、コの字型のテーブルを用いている(それと何故かイエスでなくヨハネが中央にいてイエスはその左手。ユダの位置はイエスの左手だが、これはパンを手渡せるようにしたためだと思う)。イエスにパンを渡されたユダは思わず身を引くが、このポーズもダ・ヴィンチからの引用か。その後も、桂冠のイエスや磔刑などで絵画的な表現を用いている。
 劇中では、何度かイエスの起こした奇跡への言及があるが、彼が実際にこれを行う場面は出てこない(預言はするが)。その意味ではリアリスティックであり、人間としてのイエスを描こうとしたのかもしれない。しかし、イエスの全く動揺しない佇まいや詩的で深遠な物言いは、彼がただ者でないことを表している。ソフトフォーカスはイエスの顔に神聖さを付与するのに役立っている。イエスの神性/人性の描写の相場が分からないので、本作がイエスをどう表象したかったのか自分には判断できない。
 
■聖書の映画化について思ったこと
 本作にはセリフ数の抑制や、表情・演技の大仰さなどに、サイレント時代の名残がまだ窺える。セリフの多くは聖書から引用された、やや芝居がかった言い回しである。
 このようなほとんど神話や伝説のような歴史的事件を描くうえでは、むしろ様式性を前面に出したアプローチのほうが自分にはしっくりくる。というのも、それは本質的に表象不可能なので、「あくまで後生の人間が想像力で再構成したに過ぎませんよ」という体を保つべきだと思うからだ。
 もっと言うと、近代的な意味でのリアリティがなくても、その人物や出来事の実在感が伝わるという確信があるから演劇は成り立つのだと思う(あるいはアイドルのライブを想起されたい。そこで演技しているのはファンも同様である)。つまり、送り手と受け手との間には紐帯があることが信じられており、しかもそれは、あえて「私は信じている」と宣言してしまえば、ただちに失われるようなシロモノである。つまり、両者はエートスを共有している仲なのだ。
 さて、個人がバラバラになった近代社会に生まれた映画は、不特定多数に実在感を抱かせなければならない。この映画は、全体としてみればリアルさを目指している。しかし逆説的なことに、結局そのようなリアリスティックなアプローチでは、聖書の物語を「大して面白くもないフィクション」として扱うことしかできないのではないか。聖書の物語は、最初から信じている人間にしか意味がなく、そういう人たちは信仰というエートスでつながっているがゆえに、表現が拙くても通じるのではないか(むしろ拙いほどよいとすら言えそうだ)。