三四郎

新しき土の三四郎のレビュー・感想・評価

新しき土(1937年製作の映画)
1.0
最低最悪の国辱映画。
3度目にしてようやく画面を切らずに最後まで通して見ることができた。
初めて見たのは、大学1年生の時だった。母が借りてきたDVDのひとつにこの作品があったのだ。見始めてすぐに嫌悪感を抱き、10分も見ずに私は席を立った。

鑑賞後に読んだ【1937年3月1日『新しき土』キネマ旬報批評】の抜粋。
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(前略)
ファンクの日本觀であるが、これはあまり感心の出来るものではなかった。現代の日本に存在する事物を材料として組立てたストオリーとしては、日本を知ること、あまりに淺すぎ、表面的の素通りにすぎないものと言はねばならない。作品の内容として盛られたものを大別すると試寫界に云はれたごとく、日本精神といふものゝ解明、東西兩文化の比較、對立、交流、個人主義と家族制度の問題などである。しかし、これらの問題は、作者のふかい理解のうへにたって論じられてゐるのでなく、きわめて皮相な見方から出發してゐるのである。
極端な言ひ方をすれば、これは、そのむかしピエル・ロティによって描かれた「お菊さん」當時の日本觀と大差ないもので、従來のカブキ、フジヤマ流の外人旅行者の日本觀から數歩を出ないものである。しかも、それに加へて困ったことには、その見方がナチス流の粉色をほどこされて解しゃくされ、解決があたへられてゐるのである、(中略)それから防共思想の宣傳、など、その典型的なものだが、ことに家族制度に對する考へ方の狭古さにいたっては、まさに數十年の昔に逆行する思ひがする。
元來、アーノルド・ファンクといふ人は、藝術家として幼く稚い内容しかもってゐない人らしく、主觀だけが强く、客觀性や批判󠄁性に乏しいといった缺點が見うけられる。その結果として、彼の作品中では、いつも山岳を熱愛したものだけが傑作として残されてゐるのであるが、御多分に洩れず、こゝでも、そのファンクの缺點が、そのまゝ見方の淺い、赤毛布式日本觀となって作中に露出されてしまったわけである。言ふならば「山男の詩情」ゆえに値打のあった山岳映畫の製作者アーノルド・ファンクは、下界に降りてナチス御用作家となり、そのまゝ日本に招かれて、輸出向きの觀光宣傳映畫をつくったやうな恰好になってゐる。
(中略)
出演者の演技についても書くべきところだが、どうもこの映畫に於ては、感心した演技といふものは一つも見あたらなかった。(以下略)
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日本の娘はあんな喜び方はしない!皆に「お兄さんが帰ってくる」など喜びを誇張し過ぎて不自然極まりない。苦笑いであった。そして、どうしても我慢ならず席を立つ結果になったのは、青年主人公役の日本人俳優が実に不細工で…、短足、小太りで見ていられなかった。ドイツ人女性のあの安定の美しさ、そして背の高さに、何故…、何故、日本男児の代表としてこの俳優を選んだのか!!後に、小杉勇という俳優さんがいかに演技力のある名優かということを知ったが、19歳の私には、この配役が日本人に対する侮辱としか思えなかった。
よくもまぁ日本側もこの俳優で、しかもこのバカバカしくてくだらない退屈なストーリーの映画製作に協力したものだと悔しくてたまらなかった。これが1930年代に世界中に輸出されたかと思うと10分も見ていないにも関わらず赤面するしかなかった。そして今日に至る…。
もう我慢して見た。
原節子の登場。だから日本人女性はこんな派手なバカみたいな喜び方はしない!!とまた同じところでツッコミを入れた。
そして…君は一体全体どこに住んでいるの?!大阪の夜景、ネオン街のバックに何故「東京音頭」!?家の裏に厳島神社?!バカヤローと叫びたくなるが、もうアホらしくて…。伊丹監督が可哀想だ。彼の名前をクレジットすべきではない。こんな国辱映画に。

ストーリーはバカげており演出も最低だが、画は美しい!画面の構図は実に良い。日本はやはり美しい。涙が出るほど絵になる風光明媚な国だ。

だがしかし、ああ…火山シーン…。酷すぎる…。家崩壊シーンなどお粗末過ぎる。ミニチュア模型なのがよくわかる…。
お話にならない迷作だ。

当時、日本人は日独合作映画ということでかなり期待してこの作品を見に行ったはずだ。それがこんな駄作でどんなに哀しかっただろう…。
三四郎

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