SALT

儀式のSALTのネタバレレビュー・内容・結末

儀式(1971年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

着物、は人体の曲線を全て隠して直線からなる様式の美に変える。素を隠して型に嵌める事が日本の美なのだと、そんな類の話を書いていたのは九鬼周造だったでしょうか。
儀式、儀礼の美しさも同じ。人造の型の美です。

共同幻想である家族もまた家族の型に個人を嵌めて枠に変えます。
この映画では、父子である事実に目を瞑り祖父と孫。兄妹である事に目を瞑り従兄弟。真実の家族関係が、暗黙の了解の中に埋没して、別の何かにされている。

この見ない振り、見えない振りをすることに本映画のテーマがあるのでしょう。

家族や国家という実体の無いものが「在る」振りをしているのが社会の成り立ちで、社会の中では常識人の仮面を被った人達によって真面目ぶった国家論など取り交わされる。実体の無い幻を、さも存在するかのように熱弁する事は狂人の所作だ。そのようなおかしみ、滑稽さ。

この映画から感じる凄み、おかしみは、「様式」の持つ力にあるのだと思います。

日本生まれでは無い日本人、満州男ますお。彼は本当はこの様式の呪縛から外れている。様式に収まらない事の象徴が野球だったのかな。アメリカから輸入されたスポーツ正岡子規が和製に変えたものが野球。
満州男の母が死に、野球を捨てたという事が、満州男が様式の呪縛に身を落としたという瞬間に見えます。日本の呪縛に屈して、従僕となりました。

様式的なものと言えば、「嘘」もまた様式的なものです。満州男の母が夷狄と昵懇したのか否か。真実を隠して必死に否定する母の姿もまた様式。
息をしているのに死んだことにされて埋められた赤子。それもまた様式。

死体を隠す棺桶。寝姿を隠す布団。警邏の制服。死装束。包帯。みんな様式です。

九鬼周造の様式美論の大元は世阿弥の風姿花伝にあったような気がしますが、本映画に登場する葬儀場は能の舞台に似ています。
それらに美しさを感じさせられた所に、自分自身が日本人である事を強烈に意識させられました。この映画は日本人でなければ分からないセンスが多い。そうしたものを描くことで外国人に大島渚の持つオリジナリティを表現しようとしたのでしょうか。

花嫁が居ないのに、結婚式が続行されるとか、全員で花嫁がいるつもりで振る舞うとか、まさに日本人的所業だし、外国人には到底理解できない場面ですよね。そうして日本人は戦争をしたし、玉砕をした。戦争は大きな共同幻想だったんですね。これを見た外国人は日本人の持つ秘密に触れられる気がします。

最後にミツテル君が死体になって転がっている。全裸だ。様式の呪縛から外れて生の、素の姿だ。それはすなわち桜田家が暗喩していた様式国家大日本の死だ。
映画の製作が1970年頃。その頃には美しくて滑稽な大日本は凡そ失われていて、大島渚監督はそれに感傷を感じていたのでしょう。日本人へのお弔いですね。

左翼思想が国家解体を唱えて、日本を打倒しようとしましたが、桜田家が左翼思想に倒される事はなかったわけです。歴史の中で、左翼思想は、闘争は、結婚式直後に交通事故で亡くなったタダシ君のように徒に駆逐されただけで。タダシ君は本当は戦場で死にたかった。己の信条と信念を掛けた戦場で、桜田家を打倒するための戦場で死にたかった。でも彼は信条に命を賭すること無く、単なる交通事故で死んだ。左翼を志した若者たちは、その多くが命を賭する機会もなく、徒にその精神を駆逐された。
桜田家が滅んだのは、左翼思想のせいではなく、桜田家自身の呪めいた自重によって自滅しました。古き良き大日本もまた。鎮魂。

ところで。
強権的な父性の象徴であるおじい様に、周囲の人間は黙って従っていますが、恐れられている割に全員が茶化したり、反抗したりしてばかりなのが、面白かったです。
終戦直後の軍国主義が抜けきらない強権的な日本政府はいかにも恐怖政治を行っていた印象がありますが、平民は意外と風刺に満ちて政府に相対していたのかもしれません。そのような戦後の日本史を垣間見るような映画です。素晴らしい映画でした。
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