三四郎

按摩と女の三四郎のレビュー・感想・評価

按摩と女(1938年製作の映画)
4.9
馥郁たる香り漂う名作。
実に流麗で感慨深く情緒溢れ、胸が締め付けられるような切なさを感じさせる詩的映画。
高峰三枝子は息を呑むほど美しく、十九歳であの妖艶さ…。そして徳大寺伸の演技はもう秀逸すぎて…。
初めて東京の女が按摩を呼び団扇であおぎながら会話するシーン。あそこは何度繰り返し観ても飽きない。三枝子と徳大寺の演技力に脱帽せずにはいられない。

めくら按摩が五人登場し、彼らは躓いたり、電球に頭をぶつけたり、冷やかされたり、人にぶつかったり、ぶつかられたりする。しかし、決して彼らめくらに対して偽善的同情を誘うようには作られていない。
この作品は、通常の弱者めくらが、強者めあきを追い抜かしたり、打ち負かしたりといった清々しく粋な設定になっているのだ。ここが見どころだ。よく練られた奥深い作品である。

朝から三枝子が徳大寺を「名指し」で呼んでおきながら、道で徳大寺の勘を試し、逃げ去るシークエンスがある。
この場面は、科白無し、音楽無しの完全無音で表情と動作のみで全てを物語っている。徳大寺の「東京の女」が近くにいると感じる演技力も素晴らしいが、なんといっても、三枝子のあのいたずらっぽい誘惑するような表情としなやかな演技。この妖艶さは誰にも真似できないだろう。
恋する徳大寺の見えない瞳の奥に彼女の魅惑な視線はどう映っていたのだろうか。

次の科白無し、音楽無しの完全無音シーンは、佐分利が東京へ帰る時のシーンだ。
佐分利は一人馬車に寄りかかり、マッチに火をつけ、煙草を吸う。この場面は、完全無音で、マッチに火をつける「シュッ」という音だけが響く。このマッチの火のように、温泉場での三枝子との出会いに一瞬佐分利の心は燃え上がった。
しかし、煙のように浮遊する「東京の女」三枝子を掴むことはできなかったのである。
科白無し、音楽無しの完全無音シーンは、この映画において緊張感を増すと共に、「東京の女」=「謎の女」に「恋した男」を表す共通した演出となっている。

サヨナラを言いに来た少年を追い駆け東京に帰っていく馬車を追うシーン、あの危うい女の走り姿。心に刺さり胸が熱くなる見事なシーンだ。走り去った馬車を見送る帰りたくとも帰れない「東京の女」の淋しい顔も忘れがたい。

雨のしとしと降る日、「東京の女」が蛇の目傘を差し、橋上から視線を川面に落とす構図、あの艶な立ち姿。これはまさに絵画だ。彼女の視線の先にある川面に落ちる雨の雫は、心の涙の描写であろう。この心の涙は、佐分利に対して、懐かしい東京に対して、自らの境遇に対して…すべてに対するもののあはれだ。

ある勘違いから徳大寺が夜、三枝子の手を引き宿から逃げるサスペンス的シーン。裸足で走るところを次第にアップにして撮り続ける演出は緊張感を高めている。

そして、結末となるラストシークエンスは雨。これは按摩と女の別離の涙。
三枝子が乗る馬車の横を按摩たちが傘をさして通り過ぎて行くが、徳大寺だけは「東京の女の匂い」と「勘」により立ち止まり、馬車の方を振り返る。三枝子もそんな徳大寺を見つめる。
そして馬車が走り出した瞬間、三枝子は旅館の女性に甲高く声をかける。「お菊さん、坊やから手紙が来たら、早く大きくなって立派な人になるように返事出しといてねぇ」
この三枝子の叫びは勿論坊やへの伝言でもあるが、それよりも徳大寺への別れの挨拶だろう。彼女に気付き立ち止まった徳大寺に対して、間接的に「さよなら」を言っているのだ。彼女が馬車に乗って去ってゆくことを知らせているのである。
だからこそ、三枝子が乗っている馬車だと確信した徳大寺は走ってその馬車を追うのだ。
走り去った馬車を追い駆け見えない目でいつまでも見送るラストシーンにおいて、馬車の後姿を捉えるキャメラが揺れながら前進移動するのは、徳大寺の眼・視線を表しているからだろう。

ところで、あえて盗難事件の犯人を特定するという野暮な試みをするのであれば、最後に馬車に乗り込む二人組の男のうち、老人が犯人で制服姿の男が警察だろう。
何故なら、按摩仲間の日守が馬車の方へ向かうこの二人組の男とすれ違った時、咄嗟に杖を老人に構えるからだ。
つまり、映画の冒頭で徳大寺に「勘」を働かせろと言われていたが、最後の最後で日守にもやっと「勘」が働いたということだ。
一瞬旦那が来たのかと思ってしまったが…。
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