青

都会のアリスの青のレビュー・感想・評価

都会のアリス(1973年製作の映画)
4.0
「自分の写真を撮れば、自分がどういう人間か分かる」というアリスの言葉のあとに撮られた、フィリップを写した写真には、アリスが反射して映り込む。フィリップを見ようとすると、アリスが見え、アリスを見ようとすると、フィリップが見える。つまり、二人は重ね合わせか、写し鏡として描写されているのかな。
確かに、フィリップは元恋人から「ほんとうに人の話を聞かないのね」と吐き捨てられて、一方的な関係性にうんざりされている。語り相手がおらず、思考はいつも自分の内言ばかり。写真を撮る時も、被写体である人物に撮影許可はとらない。「他者はいつも自分のためにある」というスタイルが板についている。自分勝手な人だ。だから、まるで子どものよう。
アリスは道行く先々で子どもたちと仲良くなる。ラジオを交換したり、微笑みあったり。ここから伺えることは、フィリップもアリスと仲良くなれるような精神を備えた人、つまり子どもなのだ、ということじゃなかろうか。大人が子どもらしくあることは、悪いことではないと思うから、あの男の相手をしてくれたのは子どもでしたというプロットが、何を示唆しているのかはよく分からない。
自分の都合で生きる人間が、同じく自身の都合でしか生きられない相手(アリス)に合わせて行動する。アリスはいつも自分の都合ばかりで行動する。だって子どもだから。フィリップはそんなアリスに窮屈さ、鬱陶しさを感じてイライラする。しかし、それらが無いなら無いで、寂しくなる。元恋人がフィリップに対して「あなたは自分がない。だから写真を撮って、自分が生きた証拠を作っているのよ」という主旨の言葉を述べていた。元恋人の言葉の裏を返せば、自分の居場所に他者が侵入してくるから、自分を生きることが出来るともいえるかもしれない。本来、自己は「空っぽ」で、元恋人が言うように自分が無いのがデフォルトなのだろう。その「空っぽ」の場所に、他者の煩わしさと制御のできなさが居座るから、空っぽではない自己が生まれる(知らんけど)。自分が生きている証拠は、他者からの反響としての自己を実感できれば獲得できる。アリスが警察から逃走してフィリップを求めたとき、フィリップはアリスという他者の反響として必要とされている自己を実感したはず(知らんけど)。
道中の老夫婦が「古いものは壊されて、新たに病院が建つんだ」と述べていたように、昔の古い記憶は上書きされて、無かったことにされる。子どもであった頃の記憶は消えて、立派な大人の建前が建設される。それを老夫婦が教えてくれるのが、ちょっと教説的だよね。
ただ、二人のお目当ての建物はあった。しかし、そこに住んでいたのは全然別人だった。つまり、古い思い出まんまの見た目をしていても、中身が違えば、それは探していた思い出の建物とは別物であることが伺える。ここから飛躍して想像すると、子どもの皮を被っても、中身が違えば、それは子どもではないと言えるかもしれない。そして、思い出の建物の在り方と逆の在り方を体現するのが、フィリップだろう。見た目は子供から大人へ成長したのに、中身はずっと変わらないからだ。これは、アリスの母親にも該当すると思う。

自動車とモノレールの視点で移動するカメラが良かった。フィリップは観たままを撮ることを欲求していたが、まさに観たままの視点を再現していたと思う。
音楽が単調なうえに、ひとつのメロディーの使いまわしで、それが映像に対して説明的でなくてよかった。
北野武は絶対にヴェンダース好きだよね。『菊次郎の夏』にこの映画っぽさがあると思う。
青