ぼさー

リリイ・シュシュのすべてのぼさーのレビュー・感想・評価

リリイ・シュシュのすべて(2001年製作の映画)
4.3
この手の物語にありがちな思春期の少年少女と大人の対立という構造にはなっていない。本作では大人の介入は最小限に抑えられており、あくまで主人公たち少年少女の世界に閉じて描かれる。
安易に大人たちとの対立のように描かれなかったことで、ある中学の学年のコミュニティの人間関係に没入できる効果があった。

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またリリィ・シュシュは精神的でピュアな存在、西洋における神のような存在として描かれているように感じた。雄一はリリィ・シュシュを信仰することで精神が救われているようにも見えるし、その信仰による救いのイメージは星野や津田にも重ねられる。皆、(エゴなものも含め)何らか悩みを抱え、救いを求めているのだ。その救いの現実世界の矛先が暴力だったりもする危うさ。

さらに、リリィファンによる掲示板投稿のテキストを映像に重ねる演出により、少年少女世界の悪意が浄化されていくような錯覚を鑑賞者に与える。果たしてリリィ・シュシュが少年少女達を救う物語なのか?
かと思いきや救いようのない残酷な世界のまま物語は終わる。現実世界もそうだもんね。
宗教と救い、あるいは精神と肉体(=理想と現実)といったテーマは非常に西洋宗教的であり、そんな宗教観への批判も混じっているような、そんな空気を纏った作品だと思った。

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リリィファンの投稿サイトを通して崇拝される理想像は現実の諍いや争いを救うことはなかった。
雄一は最後その現実を突きつけられて、それまで保ってきた倫理観を捨て去り、自らの意思で罪を犯す。

そうして雄一が罪を犯すあたりはエドワード・ヤン監督の台湾映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』と重なる気がした。
…ということに気づいた途端、本作の10年前の作品であるクーリンチェ少年殺人事件に近しい世界観だと強く感じるようになった。
雄一の巻き込まれ方や内向的な感じ、主人公のいるコミュニティ内の治安の悪さなんかも似てる感じがあるんだよね。田園風景を歩くところとか。とかとか。

『リリィ・シュシュのすべて』のWikipediaには、もともと本作はエドワード・ヤン監督とのコラボだったと作品概要に記載があり、本作には何らかエドワード・ヤン監督の要素が入り込んでいるのかもしれない。

----Wikipediaから引用----
当初は日本の岩井俊二、台湾のエドワード・ヤン、香港のスタンリー・クワンの3人の映画監督により発足したY2Kプロジェクトの一環として、香港のアーティスト「リリイ」と台湾に住む少年の物語として映画の構成が練られておりプロモーションビデオとしてリリイ・シュシュの楽曲「グライド」の撮影もされたが、岩井監督自身の「この物語の正体をとらえきれていなかった」という考えによりこの企画は一旦白紙とされた。
----引用おわり----

という訳で、日本人である岩井俊二監督によって当時の日本の少年少女たちの社会問題が下敷きになって描かれてはいるものの、製作経緯を踏まえると、もとから世界レベルの視野、世界展開が入り込んでいたと考えられる。2001年はインターネット普及期だし、巷では「グローバル化」が叫ばれてた時代だしね。ゆえに、ある地方の中学生たちの3年間の物語というより、もっと宗教的で普遍性のあるテーマを扱っているような気がしてならない。

そうやって本作を捉えてみると西洋の、神視点で見た人間の愚かさや罪深さというテーマを日本の地方の中学校という極小の箱庭を舞台に叙情的に描いた物語のようにも思える。
よって、Wikipediaに英語や他国語で翻訳ページがあることから海外の宗教圏の人たちに対しても、共感できる問題提起や訴えかけるパワーを備えた作品なのだろうと推察している。

個人的にはエドワード・ヤンが本作を監督したなら、雄一の星野に対する親しみ、劣等感、憧れ、失望、畏れといった感情の機微をもっと深ぼって繊細に描いたと想像する。でも、そしたらクーリンチェと同じになっちゃうか。
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