TnT

リリイ・シュシュのすべてのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

リリイ・シュシュのすべて(2001年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

 映画始まっての「RELOAD」の文字に、自分はまた”再鑑賞”してしまっているのだとハッとさせられて、嫌悪した。とはいえ観返して良かった、この中に没入していた自分がもういないことが確認できたので。

 寺山修司が好きなのに、何故かそのフォロワーたちである園子温や岩井俊二作品と悉く反りが合わない。この両者共に「書を捨てよ町へ出よう」からの影響は大で、節々にその影響を感じる。今作もまさにそうで、あの青春の鬱屈が現代版として甦ったのが今作と言えるだろう。しかし、2000年代前後の少年の鬱屈はめちゃくちゃ内向きだ、シンジ君だ。「書を捨てよ」からの影響は、岩井俊二にとってはより鬱に、園子温はより躁にと二極化した。ほぼ話さないで突っ立ってる今作の主人公と、ついには自身が瓦解してしまうほどエゴを剥きだした園子温。
 
 この際なので両者の共通点をあげていく。どちらも脚本が構成的ではなく、感覚的であることだ。伏線とかではなく、断片を連ねる手法だ。そこに突飛な展開が起きることが、物語の起伏になる。それもまた良いとは思う、ある種のリアリティ、人の操作しえない条理を感じれるから。しかし、永続的に続けられる手法ではない。にも関わらず、両者共にこの手法にかなり依存している。それはもはや興行を気にせずとも次作が作れる立ち位置にいるからか、手グセのように連なる歪な物語が出来上がっていく。そのマニエリスムは物語をとりあえずツイストさせることでしか物語れず、自分が見た中では「リップヴァンウィンクルの花嫁」とか「アンチポルノ」がそれだなと思えた。というか、現代の邦画には私小説的なグダグダした語りのような進行が多すぎる。そうなってくると、キャラクターは柔軟に物語に従属する為に、バックグラウンドを剥奪された形骸となる。それは非常に表面的に目に映る。あと着地点不明に陥りがちで、軸は物語から失われ、終わり方が不時着な点も似ている。

 しかし、これは彼らを安全圏に居座らせる日本の業界の温暖な環境が要因といえる(園子温のセクハラ然りジャニーズ然り、業界はぬるま湯で浸って癒着して、微動だにしそうにない)。なので、そのぬるま湯を経験する前の作品には、彼らの作家性の、その先鋭ぶりが窺えるはずである。今作はwikiにて詳しいことは書いてあるが、ようはネット掲示板から生み出された作品で、かつてない脚本の製作とネット文化を映画に持ち込む実験性が見て取れる。今作に出てくる嫌な出来事たちは、確実にネットが明らかにしたものたちであろう。その可視化が勿論嫌悪感MAXな描写になるのも致し方なしだ。ちなみに、この嫌悪の正体は「書を捨てよ」の時にも「なんだか訳がわかんないんだけど、腹が立って腹が立ってしょうがないのよ」と訴えられている。しかし腹が立つことはなく、泣いたりゲロったりするという行為に、「書を捨てよ」から今作では変換されて引き継がれている。また初体験の恐怖は自慰行為の嫌悪へと変換されている(「RELOAD」=再装填というシモの意味で、この映画はかなり自慰に近い)。この内向き具合、非力さ、時代を感じる。

 日本の映画監督は、”南のトポス”としての沖縄を重宝してるように思える。北野武はもちろん、寺山も遺作のロケ地は沖縄だった。ある逃避の先、日本であって日本でない、それでいて故郷のような場所。今作の沖縄も少年たちの逃避先となった。絶景に美女。花火をして遊び出すのは「ソナチネ」の変奏とすら思える。しかし自然の脅威に触れ死を契機にする場所でもある点ではホテル・カリフォルニアのような誘引する魔宮みたいな場としてもある。そこで触れた死が、星野を変えた。しかし、彼の後ろで流れ続ける沖縄民謡の使用の正しくなさには物申したい。星野が変わってしまって以降、彼の暴力性を引き立てるのは沖縄の伝統の歌なわけで、ある意味ヴードゥーのような怪奇へと歌が陥れられている。物事をツイストさせて書かれる物語には、契機にこれといった動機が付随しないことがしばしある。そのボンヤリした要因を沖縄の伝統に起因させるのはミスリードな気がする。せめて海のさざ波だとかが適当だと思うが。

 色々言ったものの、今作が若者特有の焦燥感や不安の捉えどころのなさに忠実なわけで、政治的で批判性がないのは当たり前かもしれない。若者はかくも盲目で、ある意味現実を現実としてだけ捉えられる純真さがある。だから今作の景色は美しさがあるがままに目に飛び込んでくる。この陰鬱とした陶酔感はなかなかに拒否できない魅力がぎっしりである。

 リリィ・シュシュというアーティストをイヤホンで聴く。音楽で耳を閉ざし世界から乖離する。個々人の心象と合致すればするほどに、音楽の意見の対立はお互いの心自体をけなし合うものに変わっていく。同じ音楽を聴いているのに、同じ思いの者はいない不毛さ。コンサート会場の殺伐とした雰囲気は、信仰の一致しなさ、神の不在さえ感じた。ウォークマンがまさに日本で生まれたのは必然かもしれない。そしてメディアミックスとして、現実世界で同名バンドを作ることで観客の没入感を最大限にし、現実をフィクショナルにする力量が凄い。浮き足立つ心地よさが、津田のような自殺へ誘う陶酔であると映画は明示しておいて、その只中に、当事者に聴く者を仕立て上げる、恐ろしい。
TnT

TnT