大道幸之丞

十九歳の地図の大道幸之丞のネタバレレビュー・内容・結末

十九歳の地図(1979年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

映画化された「軽蔑」同様、中上健次原作の1979年の公開作品。

ちなみに舞台の「東京都北区王子」は今でもこの映画のような朽ちた一角が残る。訪れてみるといい。

——19歳の吉岡が主人公。恐らくは新聞奨学生で予備校に通っており、販売店の寮に30才半ばと思しき紺野という中年男性と同室。新聞販売所も子無しで後妻を受けた「訳あり感漂う」夫婦が営業している。

他のメンバーはギャンブル狂で借金ばかりしている紺野に冷たいが、吉岡はそうではない。共だって散歩に行くこともある。厳しい客から代わりに回収を果たしてくれる頼もしい部分もある。

吉岡は配達先を手書きの地図にまとめ、家族構成など詳細も書き留めており、気に障る事がある家には度合いによって「✕」マークを付け、3つになると「家族ごと爆破する」などと物騒な匿名のイタ電をする。これが彼の唯一のストレス発散だ。

これは思うに「相手を管理している」つもりになって「上に立った気になっている」のだろう。現在のネット炎上などの在り方も吉岡の心情に通底する「力のないものの虚しい反撃」のようなものを感じる。

配達員にはプロボクサー志望者もいて期待されているがデビュー戦であえなくノックダウンに沈む。周囲は「うまくいくばかりではない人生」を歩んでいる。

紺野が時折口走る自身の女神「マリア」に会わせてもらう吉岡だが、「飛び降り自殺に失敗した」と語る、片足が不自由で肉付きのよい中年女であった。そして紺野は人前をもはばからずむさぼるようにマリアを求める。

後日、激しい雨天時にマリアを自宅付近で見かけ階段の昇降を難儀にしている姿を眼にしても助けようとしない吉岡。そこでは他の男から金を受け取る場面も眼にする。

やがてマリアを喜ばせたい心がエスカレートし、ひったくりや強盗を働き紺野は留置場に入る。吉岡は「マリア」宅にゆき、「紺野の子を宿した」事実を聞く。紺野の愚行と「売女」同然のマリアを「死ね」と罵るが、マリアはむしろ生きようとなどしてない女で、吉岡の眼前でガス管を咥え死のうとさえする。そしてそれさえも諦め「死のうとしても死ねないのよぉ」と誰にういともなく呻くのだった。

——この物語で「マリア」と「紺野」は「割り切れない現実社会」を考察するに重要な示唆を孕んだ存在だ。

19才の身で吉岡の周辺は底辺に生きる人間ばかりがもがき、様々に影響を与える。それらを偉ぶって批判する自身も女に声をかける勇気もない「予備校生」という社会的に半端な身分であり、そこへのジレンマも内包する。

とにかく 1979年はまだ木造アパートだらけの時代でもあり、簡単に他人が部屋に入ってくるし、他人が急に部屋へ入ってくることもあると意識しながらお互い暮らしている。この距離感が本作のポイント。

でも実際この時代はそうだった。下町では鍵などだれも掛けていない。出入り自由である事が見知らぬ者を見つけやすくするセキュリティの役目を果たしていたのだ。

吉岡は集金に行くたびに客の家庭事情が眼に入り、どこへと結論を導くわけでもない感情でひたすら地図を精密に書き足してゆく。

「攻撃的ないたずら電話」は現代のネット攻撃にその姿を変えているだけに思える。

TVゲームもインターネットもない時代だが、繊細な19才の感受性がどうはたらき、どう吐き出されてゆくのかは、今観てもいささかも変わりがない。
人間の本質はそう簡単に変わるものではないのだ。

この作品はどちらかと言えば1970年代の暮らしや街の観察に価値があるように感じる。

私はこの作品を人に勧めはしないが個人的に好きだ。