【アフリカと日本とでは、作り方を変えないと】
『阿賀に生きる』のカメラマンがアフリカのストリートチルドレンを撮影したという映画です。
見てみて、ドキュメンタリー映画は難しい、と改めて痛感させられました。
『阿賀に生きる』とアフリカとではやり方を変えなくてはいけないと思う。
『阿賀に生きる』は、私たちと同じ日本人が対象になっています。阿賀野川で生きる人々の暮らしが大都会の生活といかに異なろうと、同じ時代の日本に生きている人たちであるわけですから、背景は何となく察することができます。彼らの表と裏を100%映さなくても、残りの部分は想像で補えるのです。
しかしアフリカが舞台だとそうはいきません。
例えば食事のシーンにしても、この作品に映された食事シーンがケニアの子供たちにとって日常的なのか、或いは(こんなご馳走は・・・というようなセリフもあったので)非日常なのか。また、1回だけの食事シーンでは、果たして彼らが満腹になるまで食べているのか、或いは量的に不足気味なのか、よく分かりません。
同様に、ケニアのストリートチルドレンがどの程度の数なのか、それが人口の何%なのか、他のアフリカ諸国と比較してケニアはどうなのか、といった情報がこの映画には欠けています。そうした情報なしで子供たちの表情や日常だけを追っても、隔靴掻痒、どうも物足りないのです。
外国のことはその外国に行けばよく分かるというのはウソです。旅人はその外国のうわっつらに触れるだけであり、その国でどの程度の人が飢えているのか、どの程度の人が不正に冨をたくわえているのか、分かるわけではありません。そうした知識は、むしろ本やネットなどによって提供されるのです。
無論、だからこの映画に意義がないというのではありません。ただ、背景になる知識を作中に取り入れる努力があまりになさすぎる。それは、ストリートチルドレンの実態を世界に訴えたいというこの映画の目的を損なうことにしかならないのではないかと言いたいのです。作る側の真摯な意図は分かるだけに、そうした不備が惜しまれるのです。