レインウォッチャー

Touch the Sound タッチザサウンドのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.5
週刊DrCU(ドラムシネマティックユニバース)④

女流パーカッショニスト、エヴェリン・グレニーと巡る音の旅。彼女は10代の頃に大部分の聴覚を失った音楽家。

いわゆる音楽ドキュメンタリーに類する作品だけれど、これは「ファン向けのお宝映像」でも、「天才の苦悩と成功物語」でもない。
音を聴くとはどういうことなのか、そして聴くことを通した世界の豊かな見方…について、鋭く・暖かく・美しい提案をしてくれる作品だ。

突然だけれど、隻手音声という禅問答をご存知だろうか。
「両手を打つと音が出る、では片手にはどんな音があるか?」という問いである。

これの仏道的に正しい解釈はその道の人に譲るとして、わたしとしては音の在処についての良い気づきになると思っている。
つまり、音とは「出すもの」と「受けるもの」があって成り立つのだし、それぞれに独自の音がある。単一ではなく「層」のようなもので構成されているということ。

例えば太鼓を叩いた音を観客が聴くとして、そこには一口に「太鼓の音」といってもさまざまな情報の層がある。
まず楽器の内部から生まれた音があり、楽器の表面を通った音があり、叩いたスティック自身が鳴った音があり、それらを演奏者が聴いた音があり、部屋の壁に跳ね返った音があり、観客に届いた音がある。もちろん観客の座っている場所や各々のコンディション(その日の体調、生来の特性、服装など)によっても聴こえ方は十人十色だろう。

更に、その受容器は耳だけに限らない。音という振動を肌でとらえ、演奏者や楽器の動きから目で想像し、自分の知識や思い出と照らし合わせて心で感じる。
人の内部にもぱっと挙げるだけでこれだけの「音」が存在し、耳はそのうちのひとつに過ぎない。

エヴェリン・グレニーは、このような感覚を総じて「音に触れる(Touch)」と言っているようだ。
もちろん彼女が至った境地は類い稀な才能や努力、周りの環境が支えとなっているだろう。しかし、今作で彼女がシェアしてくれる感覚は万人に伝わるものだし、映像作品としてその目的に寄り添い、果たすものになっている。

彼女はさまざまな場所(路上、駅、海岸、居酒屋…)をめぐり、さまざまな人(ドラマー、和太鼓奏者、ギタリスト、ダンサー、街の喧騒そのもの…)とセッションをする。
正直この色鮮やかで茶目っ気・実験精神に溢れた演奏シーンだけで滅茶苦茶楽しいのだけれど、そのバリエーションはそのまま、どんなものや場所からも音が生まれ得る・音を見つけられることを示している。

また、水の波紋や音に驚いて飛び立つ鳥たち、構内を響く音を見上げる聴衆たち…といった姿をとらえた描写は、映像作品として音を確かに「可視化」しているといえるだろう。

彼女が、同じく聴覚障害をもつ少女に「聴きかた」を教えるシーンがある。「体を音の共振器として使うの」と。ここでいつも涙が出てくるのはなぜだろう。わたしもまた映像を通して体を注意深く・オープンにする感覚を学ぶからだろうか。
そしてそれは何も音・音楽だけに限らず、自分自身や他者…つまりは生そのものを見つめる基本的な方法に他ならない。

だから今作は、何か楽器を演奏するのが好きな人(※1)はもちろん、そうではない全ての人にとっても、明日から世界の見え方(聴き方)がすこし変わる可能性をもった作品だと思う。

この素敵な作品がいまどこの配信にも乗っていないなんてもったいなすぎる。
下記は、グレニー女史によるTEDでのプレゼンテーション。今作と同じ骨子を(実演込みで)語っているので、まずはこれだけでもお薦めしたい。

https://www.ted.com/talks/evelyn_glennie_how_to_truly_listen

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単純に「おもしろ楽器図鑑」としても機能する今作。
グレニー女史が操る楽器類は、スネアドラムやマリンバといったお馴染みのものからオモチャみたいな怪しいブツまで多種多様。

パーカッションというフィールドの「なんでもあり」感を思い知ると同時に、気になってググりはじめれば貴方もいつのまにかパーカッション博士に。

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※1:グレニー女史は、今作で「音を出すというのは、物のずっとずっと奥底に潜んでる音を探し出すこと。音は表面になく、その下にある」と語る。これは本当に本当にその通りで、身につまされる。
ミケランジェロの「どんな石の塊も内部に彫像を秘めている」という言葉と通じるものがある気がする。