akannpani

フェイシズのakannpaniのネタバレレビュー・内容・結末

フェイシズ(1968年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

オープニングシークエンス

始まりから、人物の顔アップで、画が紡がれていく。
話す人ごとにカットが変わるもんだから、
とてもテンポが早く感じて、心を突かれたようにそのスピード感に追いつこうとし、飽きる間も無く進んでいく

カットの切り返しを多用することで、テンポを生んでいくのは分かるが、こんな顔のよりの画で成立させてしまうとは
今でこそドラマとかでよく使われるような気もするけど、この時代にしかも映画で、
凄え

思えばファーストカットの階段を降りてくる男の急足からも、始まっていたシークエンスなんか

ワンカットでいくようなところを、とにかく寄って、カットを切って繋げていく
カメラワークも最終的に人物のよりになるところから始まる

顔にどんなものが映るのかを気になって仕方がなくなる

対して人物が動きのあるシーンでは
顔まではよらず、その身体的な動きが
人物の心情を映していることもあり、
バストアップ程度にとどめていく
そこに映るものが激しい動きを伴うときは細かくカットを繋いでいかない
冒頭あたりの家に三人で入ってくるところなんかは寄る必要がないからか
高揚した3人の空気感を伝えるために、カットを割ることがない

後に出てくるシーンでも、
クラブ帰りの女性たちが男一人と帰ってくるところも、
シークエンスの最初は引きで、
シーンの説明をし、
動きがあるところも引いている。
意気投合した二人組とその他の女3人
二人組は踊り、3人はじっと立っている
その関係性と人物の心情が身体を通して伝わるシーンだから


フレディがジーニーに君の値段は?と聞くとき、即ち、フレディの本心が見えた時に、顔に1番の寄りをみせる
ジーニーがその言葉を受けたときに本心が表情として出る時もここで1番の寄り
その言葉を受けたディッキーのときも

とてつもない寄りの画は、人物の真剣さや嘘のない気持ちの表れ、感情の深さを感じさせる

ディッキーが離婚の話を切り出した後の妻も、ディッキーが部屋でジーニーに電話しているところの妻は、ずっと顔の寄り
妻は何も語らないが、語れないが、
その顔で全て語っている
それをカメラが逃さない
そしてこのシークエンスの最後は、妻の後ろ姿の引いた画で終わる
妻の顔は見えなくとも、もうその心情がひしひしと伝わってくる


顔は語る
ただそこに作為があると、それも語られる
その自意識を滅却したものは強い
撮影方法なのか役者の技量なのか

カメラが手持ちでぶれる揺れる激情と
フィックスで固まる静けさと

スクリーンに収まりきらない感情の深さ

誰もが本心を見せるほど余裕がない
これだけずっと寄って顔を見てきたのに、
見えていなかった
見ていたのに見えていなかった
捨てられた食事に涙する女とその後に早口言葉を言う男
男と一夜を過ごした後に睡眠薬で死を図る女
人は本心を隠そうとする
見せる余裕がなく

1番見ているのは自分

階段に座り足を組み、タバコを吸い
登り、下り、追い、また座り
そして別々に離れる 
二人の過ごした時間を感じた
お互いが、お互いを見ずにそれぞれタバコを吸ってる時が1番二人がお互いを分かってるような気がした
同じようで違う
違うようで同じ
その混沌さ
階段で始まり終わる
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