脚本と呼べるような代物はなく、なんらかのやりとりをカメラにおさめれば、それが演技になり、シーンを形成する。
そんな通常ではあり得ないようなプロセスを想像させかねないくらいおかしな映画だ。
肩なめならぬ頭なめショットすら存在する本作に映画の常識は通用しない。通常ではあり得ないカメポジやカメラワークによる長回し。カメラの位置を役者が把握していないだろうことは容易に見て取れる。
そんな曖昧で散漫とすら言えそうなシーンのなかで、ぼくら観客の手がかりとなるのが顔だ。あまりタイトルに引っ張られて感想を書きたくないが、この映画に関してはそれが全てと言ってもよい。人間の顔が放つ強烈な感情のシグナル。
たとえば、ジョン・マーリーとフレッド・ドレーパー、ジーナ・ローランズによる、ある種芝居がかった馬鹿騒ぎから無様な解散へと至る流れを決定づけたのは、フレッド・ドレーパーの顔によってなされる。うんざりするくらい見せつけられる退屈な時間をその顔ただひとつによって一変させてしまう(とはいえ劇映画のクローズアップに見られる顔の演技とは比べると、微細な表情の変化にすぎない。各シーンを埋め尽くす退屈な会話や緩慢なショット設計が活きている)。
もっと言えば、顔の変化は、人間関係から「演技」を剥ぎ取り、生々しい感情をむき出しにさせる。長々と、楽しげに演出されもする会話が「顔」によって無意味で空虚なものになっていく。このひたすら「顔色をうかがう」作業の連続が「映画」になっているのだから驚きである。
一見、演劇的ともいえる屋内会話劇かのように装いながら、その実、顔を切り抜いた映画的ショットが決定的に重要な作品。
ハリウッドを干されて資金難でぎりぎりの状態で制作したからこそたどり着けた境地なんだろうね。もちろん誰にでもできることじゃないけど