ヒッチコックによる、主体性についてあまりにも緻密に構築されたサスペンス。
ジョーン・フォンテイン演じるわたしは名前のない女性。彼女のモノローグからこの映画が始まるが、その時「幽霊のよう」と述べるのがまずポイントだろう。冒頭の幽霊のごとくゆらゆらと屋敷を映すカメラは、この邸宅で主体性が揺らいでいくわたしを予見するかのようだ。彼女はローレンス・オリヴィエ演じるド・ウィンターと出会うことで大邸宅に住む夫人という立場に変化する。しかしその後もアイデンティティは常に揺らいでいる。
邸宅には、前妻で今は泣きレベッカの影が至る所にあるからだ。もう一つの幽霊的な存在、レベッカに取り憑かれるかのように、彼女はその主体性を揺るがされる。それはわたしが着るものの変化にも現れている。直接的にわたしを揺さぶるのは同じくレベッカに取り憑かれてるかのように崇拝するダンバース夫人だ。
ちなみに冒頭の夫婦の出会いは、最初ド・ウィンターの飛び降りの現場にたまたまわたしが遭遇したように思えるが、その真相は物語が進むにつれて徐々に明らかになっていく。そのように、わたしと周りの人間をめぐる主体性のあり方がサスペンスと結び付けられる秀逸な脚本と演出は素晴らしい。
また、崖からわたしの所作まで通底している落下のイメージ、冒頭の2本の木と幽霊、父親が木の絵を書いていたという逸話など、全てが完璧に構築されているようにさえ思え、しかも考察の余白がいくらでもある。何回でも繰り返し見たくなる映画。