blacknessfall

ディス・イズ・イングランドのblacknessfallのレビュー・感想・評価

4.5
「スキンヘッドに黒人がいるなんてリアリティーないんじゃないすか?😏」と観てもいないバカが言ってたんだよ。おまえこそバカだと声を大にして言おう。
前も何かのレビューで言ったがそもそもスキンヘッドに白人至上主義はなかった。スキンズはモッズがよりタフな労働者階級プライドを打ち出すことから発展してできたトライブだ。モッズが独自のドレスコードを生み出し中産階級(イギリスでは上流)より優雅で洒脱、要するにイケているという精神性を受け継ぎ、そこに労働者階級のタフネスを主張したドレスコードがスキンズファッション。スキンズが好むフレットペリーのポロシャツはモッズの必須アイテムの1つだった。モッズに黒人がいたように(『さらば青春の光』を観よ)黒人のスキンズが居てもなんの不思議もない。

が、しかし、現在スキンズのレイシストは星の数ほどいる。よく知らない人間が上記のような誤解をするのも分かる。
本作を観るとスキンズ・カルチャーに何故レイシズムが浸透したのかがわかる。

1983年、フォークランド紛争で父を無くした10才の少年ショーンは母親と二人暮らし。学校でも浮いた存在で孤独な日々を過ごしている。
そんなある日、服装をバカにしてきた生徒とケンカをする。ショーンは悪くないのに校長から強く叱責される。
最悪の気分での下校中、スキンズのグループがショーンを見つけ、メンバーのウディがショーンに話しかける。スキンズグループはみんなショーンに優しくしてくれた。
これ機にショーンはスキンズグループとつるむようになる。
みんなのようにスキンズになりたいショーンはウディの彼女ロルにスキンヘッドにしてもらう。おもけにシャツとサスペンダーをプレゼントされる。ちなみにこのスキンヘッドのサスペンダーはバッグがクロス×してるものではなくストレートIIになってるものが基本。おれはスキンズファッションに凝ってた時期に手に入れるのに苦労した。イギリスだと簡単には手に入るんだな、と感心した笑
それはともかく、後は靴だとばかりにDr.Martensのチェリーレッド8ホールブーツを母におねだりする。
この時、ショーンの母が難色を示す。「これは不良が履く靴よ、本当にこれがいいの😔」と。
今でこそ無難なおしゃれアイテムとされるDr.Martensだが当時はパンクスやスキンズ御用達だった。なのでパンクスのおれも履いてるんだけど、最近、オサレ若者に流行に敏感で若者受けを狙ってるおっさんのように言われることがあり今のマーチンブームは苦々しく思ってる。まあ、買いやすくなったからいいんだどね笑 とは言えやはり心の奥でアイデンティティを奪われてしまった憤りがあったりする。「断りなく俺達の拘りの触れるな😡」©️BLUE HURB
それとショーンが欲しがるチェリーレッドの8エイトホールはスキンズが特に好んだもので、当時これを履いてるとマジにガチな不良のレッテル張られたらしくショーン母の難色は妥当なもの。マーチンは昨年、チェリーレッドを廃盤にしたけどそれはこの悪評が今だにヨーロッパでは残っているからなんだろうか?

話を戻すとブーツも買ってもらいショーンは晴れてスキンズデビューする。年上のお兄さん、お姉さん達との楽しい日々。

しかし、刑務所からコンボがグループに戻ってくると空気が変わる。
コンボは刑務所でレイシストに変貌していた。
「現在の我が国の衰退は移民達が我々から仕事奪い取ったからだ!」「移民を我が国から叩き出せ!」と、どの国でも定番のレイシスト・マニフェストを振りかざしアジる。メンバー達の一部がコンボに同調する。ショーンも感化される。
それでも、口で言ってるだけなら良かったんだけど(良くもないが)、コンボは当時イギリスで勢力を伸ばしていた極右団体ナショナル・フロントの地区リーダーと繋がっていた。ナショナル・フロントの薫陶を受けパキスタン人への恐喝、恫喝。挙げ句、パキスタン人の商店から商品を強奪するまでになる。やがてコンボとコンボに賛同できないメンバーの溝は深まり取り返しのつかない悲劇が起こる。

要するに社会に家庭にも居場所がないスキンズの白人に"愛国者"というプライドを刺激してナショナル・フロントが多くの白人スキンズを取り込んでいく過程が本作ではリアルに描かれている。
リアルなのは当然で本作で描かれるのはシェーン・メドウズ監督の実体験。ショーンはメドウズ監督がモデル。パキスタン人商店から商品を強奪するシーンのメイキングで「あの頃、ぼく達は毎日のように店を襲っていた。おぞましいことだ」と沈痛な面持ちで語る。


スキンズグループのメンバーでレイシズムにのめり込むのは孤独と寂しさと劣等感が強い者達だった。
レイシズムを持ち込んだ張本人のコンボが特に顕著で勇ましく愛国を叫び有色人種を罵ることはできても、フラれた女の子に未練がましく卑屈にしか接することができない。思想(レイシズムなぞ思想ではないが)の違いを乗り越え音楽の趣味で意気投合した黒人スキンズの仲睦まじい家庭の様子を聞くうちに自分の冷たく絆のない家庭環境と比べ塞ぎ込み「いいな、俺には何もない…」と涙目で呟く。そう、コンボには何もなかった。そこに理解者面して近づいてきたのが差別主義者達だった。コンボを利用するために。
コンボはクソ野郎だがこの瞬間だけは激しくコンボに同情した。

何もないてのは示唆的で、ここに出てくるスキンズ達、本当に何もないんだよ。
これを観るまでスキンズと言えばオイ・パンクバンド及びそのシーンにいる人達(レイシストじゃないよ)しかイメージがなかった。だからビール飲んで🍺ライブで盛り上がって、サッカー⚽️観て負けたらフーリガンになって暴れるという、オイ・パンクバンドがよく歌うあの世界かと思ってたけど、本作にはそんなハレのイベントは何もない。カタルシスが皆無。閉塞感と虚しさだけはいっぱい。
華麗に見えて実は閉塞感に満ちていたモッズの真実を描いた『さらば青春の光』のモッズ達でさえブライトンの暴動というビッグイベントがあったし、主人公のジミーは惨めだったが憧れのモッズ女子と刹那的に結ばれたりもした。
本作にはそんな青春ならではの"光"すらない。
60年代より閉塞し荒廃した80年代の労働者階級の若者の世界は間違いなく新自由主義(富裕層だけが潤う世界構築)を推し進めた当時の首相サッチャーが作り出したものだ。これは断言できる。
現にサッチャー以上の富裕層優遇に邁進した安倍政権以降、我が国でも孤独で貧困に苦しむ若者が増加し多くが差別主義や拝金主義に取り込まれ憎しみと虚しさを募らせるだけの不毛な青春を送っているではないか。

差別というのは孤独と貧困に入り込み分断と憎しみを生み出す。そしてそれを利用する者達の支配と搾取は続く。
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