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春のソナタのnetfilmsのレビュー・感想・評価

春のソナタ(1989年製作の映画)
4.0
 ある3月末の金曜日の午後、ジャンヌ(アンヌ・ティセードル)は哲学の授業を終え、一目散に高校を飛び出して行く。見慣れたパリの風景はいつものように怠惰に映る。恋人のアパルトマンへ行ってはみたものの彼は旅行中で、雑然とした部屋は男のいい加減さを物語るのだ。最初、彼氏のスーツを律儀にたたみ直していたジャンヌは突如馬鹿らしくなり、自分のアパルトマンへと戻るのだが、そこには見知らぬ男がいる。数日間いとこに貸すつもりが、乗っとられた形になってしまい、彼女はどこにも家がないのだ。マンションの一室で繰り広げられるパーティに出掛けてはみたものの、話し相手のいない彼女はソファにどかっと腰掛けるしかない。どこにも居場所がない女性はここで運命的な出会いに見舞われる。目の前で男といちゃつく少女とは明らかに気が合わない雰囲気だったが、ナターシャ(フロランス・ダレル)の方がやけにジャンヌを気に入り、彼女の家へと誘うのだ。いかにもインテリでブルジョワジーの別宅のようなアパートで少女は1人満ち足りた日々を送るのだ。だがナターシャは父イゴール(ユーグ・ケステル)が彼女と同年代のエイヴ(エロワーズ・ベネット)と付き合っているのが我慢ならないのだ。

 所在無きジャンヌは家族の有難みを知らない少女とうっかり出会う。この時点でナターシャにはある魂胆があったもののジャンヌはそんなことは知る由もない。楽しい週末を過ごすために好奇心で見知らぬ門を叩いた女は、さして面白くないだろうと推測した少女の寂しさに触れ、彼女の背景がやたら気になり始める。それは哲学の教師としての職業意識だったかもしれないし、バスタオル1枚で鉢合わせした彼女の父親イゴールへの女としての興味だったかもしれない。いずれにせよ翌週末、ジャンヌはナターシャと共にフォンテンヌブローの別荘に出掛ける。色とりどりの花が咲き乱れ、柔らかな光が差し込む庭は春の匂いを精一杯に吸い込むのだが、ここにはうっかり会えば気まずい先客がいるのだ。同世代の女性同士はマウント合戦に終始し、そのギスギスした空気は春がもたらす最高の空間を著しく損なう。ワインを吞みながら男と女は思索に明け暮れ、教養の中に挟み込んだ譲れない思想・信条を語り合う。その場にいた人々はみな、ジャンヌの「支配」という言葉に過剰な反応を示す。自分の娘を手懐けたジャンヌへの単純な好奇心はやがて彼女への愛情に変わっていくのだが、ナターシャの苦悩を仄かに知る人物としては簡単に一線を越えることがない。

 ここでの「隣に座っていいですか?」のやりとりが醸し出す濃厚なエロスは尋常ではない。やがてうっかり再生したカセットテープの作曲者だけには飽き足らず、曲名や伴走者すらも言い当てた彼女の姿勢にこそ、母親不在の深刻な病巣が垣間見える。父を巡るトライアングルの鍔迫り合いを巻き起こすのは、寓話としての首飾りの謎を巡る夢物語であり、エリック・ロメールはそこにファンタジーを比喩として込める。優柔不断なイゴールが声を上げられない一方で、女たちは罵り合い、怒りをぶつけあい、時には泣きじゃくり、逃げ惑う。14歳の頃のピアノ・ソロを愛する父はあの頃のまま、娘を思想の檻の中に閉じ込めようとするが上手く行かない。挙句の果てには自らの代理的ないい歳した大人に傅く。然しながらすっかり疲れ切った中年のリビドーは無意識に娘を回避して行く。私だけを見ていて欲しいという娘の承認欲求と中年のリビドーとはくすんだままで一向に折り合うことがない。ロメールの映画では大人たちがうっかり自身の限界値を曝け出す一方で、ナターシャのenfant terrible(恐るべき子供たち)ぶりは文字通り底が知れない。今は亡きシネ・ヴィヴァン六本木の空気や湿度が思い出されるわが青春の1本であり、四季の物語シリーズの記念すべき第1作目である。
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