アニマル泉

ボーイ・ミーツ・ガールのアニマル泉のレビュー・感想・評価

ボーイ・ミーツ・ガール(1983年製作の映画)
5.0
レオス・カラックスの衝撃の処女作。ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」やペドロ・コスタの「血」のようにシネフィルらしい瑞々しく強度が高い白黒作品だ。本作の強度はサイレント映画の強度である。夜の川べりを歩いていくマイテ(マイテ・ナイール)の後ろ姿に大きく顔のアップが多重露光されるショットはムルナウの映画のようだ。アレックス(ドニ・ラヴァン)がレコードを万引きする場面、隠したジャケットが破れる、床に散乱するレコード、カメラ前に走り込んでくるアレックス、この完璧なリズムはラングの映画だ。ミレーユ(ミレーユ・ペリエ)が髪を短く切ってしまうとドライヤーの「裁かるるジャンヌ」のルネ・ファルコネッティと同化してしまう。見上げる顔のアップはまさにドライヤーが撮ってるみたいであり、ミレーユがいきなり修道女のような帽子を被るのには唖然とした。一夜が明けてアレックスとミレーユが並んで座るバス、後ろのバスが近寄りなんとミレーユの恋人のベルナール(エリー・ポワカール)が立っている、ミレーユは気づかずにバスが走りはじめる、このワンショットはムルナウの「サンライズ」のように美しい。
本作はセリフが極端に少なく、劇伴奏もない。映像で見せるサイレント映画の魂が貫かれている。中盤の長いパーティーの場面はゴダールの「気狂いピエロ」やレネの「去年マリエンバートで」を彷彿とさせる。サイレント映画の上映技師だった男が手話という視覚的なサイレントそのもので会話をする。
アレックスとミレーユのツーショットやツーアップが力強く素晴らしい。二人は目線を決して合わせない。片方が見つめると片方は頑なに視線をそらす。メロドラマは二人の視線がいつ交わり、距離が破棄されて接吻するかが魅力なのだがカラックスは「ボーイ・ミーツ・ガール」という題名とは裏腹に二人の視線を決して交わらせない。ラストシーンの悲劇は二人が最後まで見つめあわない抱擁が原因となる。ミレーユの部屋はカーテンを開けると外から丸見えで、向かいの窓ではいつもカップルが濃厚に抱き合っているのと真逆だ。あるいはアレックスが夜の橋で遭遇する濃厚に接吻しながら回転するカップルとは真逆なのである。カラックスの映画は視線が常にすれ違う悲劇だ。

本作はカラックスの主題がいくつも芽生えている。
「水」は冒頭の夜の川面から官能的だ。ラストのミレーユのアパートの床に溢れている水の質感がなんとも素晴らしい。
「穴」は冒頭に娘と家出したマイテが娘を抱えて運転する自動車のフロントガラスの割れた穴から突き出るスキーとストック、そしてなんといってもひび割れだらけの公衆電話の割れた丸い穴からアレックスがミレーユに電話をする決定的なショットだ。
「破損」は本作を通底している主題だ。「ガラスの割れた穴」と同様に重要なのが「欠けたカップ」である。アレックスとミレーユが二人で飲む欠けたカップだ。アレックスが紅茶を作ろうとするティーバックも破損している。ミレーユはワインしか飲まない。ミレーユはワインと煙草、アレックスはどちらもやらない。この二人の場面は「停電」が起きる。停電も破損、故障だ。さらに黒コマも挿入される。ゴダールっぽい。ミレーユはアレックスの指を触わる。アレックスはミレーユの手に頬擦りする。真っ暗で雷雨の音が響く。みんなが帰り二人だけになる。アレックスは遂にミレーユを抱きしめようとした瞬間に欠けたカップが落ちて割れる。このあとが異様だ。アレックスはミレーユの顔に最接近するのだが、決してミレーユを見ない、異様なアップとなる。欠けたカップが割れたように、アレックスとミレーユの関係は「破損」して成就することがない。
「橋」「トンネル」「地下道」「川」というカラックスの十八番は処女作である本作から濃厚に堪能できる。

カラックスは「断片」の作家になっていく。本作でいかにもカラックスらしいのがアレックスの登場場面だ。前述したマイテの場面である。マイテが川に夫の絵や手紙を投げ捨てる、アクション繋ぎで川べりを歩くマイテの横移動ショットになる、このアクションのリズムが素晴らしい。床に散乱する万引きのレコードや、本作で頻出するグラスやカップが落下して割れるショットと響きあって、「落ちる」「割れる」「ぶちまける」といった運動が本作を豊かにしている。マルテはトマ(クリスチャン・クロアレック)に時間を尋ねる。そして前述したいかにもムルナウのようなショット、マルテの去る後ろ姿に大きくアップが多重露光される。そのショットでマルテはチェックのスカーフを落とす。そのスカーフというか端切れをトマが何故か拾う。その瞬間、自分を呼ぶ声がして振り向くと、アレックスが階段を降りてくる登場カットになるのだ。まずマルテの存在だ。彼女はこのあと一切登場しない。「断片」なのである。本作でこのあと重要になるのはもちろんアレックスと、さらにマルテが落としてトマが拾った端切れだ。この端切れはチェック柄でアレックスのチェックのジャケットと見事にマッチする。アレックスは端切れをフラれた恋人フロランス(アンナ・バルダッチニ)の物だと勘違いしてトマから奪うのだが、「破損」だらけの本作において唯一マッチして見事に補完しあうのが、チェック柄の端切れとアレックスのジャケットなのである。アレックスがこの端切れをマスクにして顔を覆う、完成形になるのはラストシーンである。アレックスが端切れを手にしたことから始まる物語が、アレックスが端切れを身にまとうことで見事に完結するのである。話を戻すと、アレックスとトマが歩きながらの長い移動ショットで突然アレックスが殴り出す。アレックスがトマの首を絞める、トマがナイフを出す、トマが気絶してナイフを落とした瞬間にアレックスが我に帰る。そして端切れを奪って去る、ロングショットでトマが一人残されるがアレックスが走って戻ってきて川にトマを突き落とす、川に落ちたトマ、川べりの縦構図のロングショットをアレックスが疾走して去る、そこへ短くミレーユのアップが大きく多重露光される、まさにこのショットもムルナウのような決定的ショットだ。マルテからアレックスが登場して殺人未遂の事件が起きるこの一連のモンタージュの強度と密度はカラックスの鮮烈なデビューを刻印しており、マルテの断片化はこのあとカラックスが陥ることになる「断片」の作家性を予感させている。 

カラックスは「夜」の作家である。本作から遺憾なく発揮されている。
本作は「声」の映画だ。誰が喋っているのかわからない。この「ズレ」もカラックスらしい。パーティーのほとんど動かない人々のグループショットに誰かの声が被る。照明もそうだが「去年マリエンバートで」に共鳴している。
本作のセリフは会話というよりは一方的な独り言である。電話や、アレックスが立ち聞きしてしまうミレーユのアパートのドアフォンも、会話ではなく一方的だ。独り言は詩になり、歌にもなる。
カラックスは「走る」映画だ。本作もラスト、アレックスがミレーユのアパートへ疾走する、その疾走する足元を奇跡的に見事に捉える無音の移動撮影は神がかっている。
ナイフとハサミが物語の節目になっている。アレックスに首を絞められたトマがナイフで刺そうとして刺せない冒頭から、ミレーユはハサミで手首を何度も切ろうとして切れない、オンでは描かれないが髪を短く切った時はハサミは正しく使われたのだろう、そしてラストのハサミの悲劇。ハサミがナイフの代わりになってしまった。
ドゥニ・ラヴァンが素晴らしい。あの顔つきがいい。ラヴァンなくしてアレックスは存在しない。
白黒ビスタ。
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