砂場

こころの砂場のレビュー・感想・評価

こころ(1955年製作の映画)
5.0
市川崑監督は有島武郎の息子森雅之の起用からして白樺派を密かに導入している、しかし”白樺派に殉死させる”という逆転の発想
漱石に肉薄する大傑作❗️
まずはあらすじから


ーーーあらすじーーー
■奥さん(新珠三千代)のうつむいた表情のアップ、家で裁縫仕事
夫(森雅之)は行かないのかと聞くが、一人で行ってらして
僕を怪しんでいるのか、外に女がいるわけないじゃないか、どうぞ、お一人で、、
■一人で墓参りしているところに、先生!参考書をお借りしたくて、学生(安井昌二)が墓に来た。なぜここに、妻に聞いたのか、、ちょっとビールを飲まんかね、、さっき少し妻と喧嘩してね、、幸福な夫婦に見えますか?
さあ、そろそろ帰ろう
■くめや号外買っておいで、、
先生はなんで世に出て仕事をしないのですか?先生ほど学識があって、、なぜ、、号外には明治大帝の病状、どうして奥さんにあんな態度を
■数日後、先生は出かけるので不用心なので日置は先生のお宅で、
奥さんと留守番、お紅茶をどうぞ、なぜ先生はあのようになっていったのか、、逆に静は日置に聞いた、もし先生のことで知っていれば。日置さん教えてください
■海、日置が海岸にいると沖に男が泳いでいる、死ぬかもしれないという予感、二度と帰らない海の果てに行ってしまうように、、
日置は海に飛び込んで男に近づいた、それが先生との出会いだった
■静はいう、仲の良いお友達が死んだんです、、そのことがあって性質が変わりました、その人の墓ですか?
■先生の回想、人に欺かれた、、父と母は早く死んだ、叔父は初めは善人だった、、しかし叔父は父の財産を誤魔化していたのです
今に話しますよ、、くめの表情が曇る
先生と妻はどっちが先に死ぬのか笑いながら会話
■日置の父は病気で末期だった、父の読んでいる新聞には明治天皇崩御の報
■先生の回想、親友の梶が思想を極めるあまりに自ら肉体を消耗させていることを心配し、一緒に下宿に住もうと提案
奥さんとお嬢さんの下宿に移る
■乃木夫妻の殉死のニュース
私に隠し事をしてます?、私より日置さんを愛してるの?
■私の過去を話す時がきた
先生は奥さんに対し梶に親切にしてやってくれ、梶は道を独力で進む男ですと頼むが、奥さんは微妙。はい、、でも、、
梶さんの下宿は反対でしたの、、
■梶と静は部屋できゃっきゃしている、嫉妬で先生は不貞腐れる
■夏休み、先生と梶は海に、崖から帽子を落としてしまう梶
帰り道、日蓮宗の坊主がいる、議論をふっかける梶、手を繋ぐ二人、
■梶と静が雨の中を家に向かう、先生は外出するところだった
二人はどこに行ってきたのか
■梶は先生に告白する、
お嬢さんを忘れることはできない、君のいう通り俺は口先だけの人間だ、、
それを聞いた先生は焦って奥さんにお嬢さんを私にください、、以前から思っていました卒業したら式を、よござんす、、差し上げましょう、どうぞ
■奥さんはこのことを梶に話してしまう、すでに知っているものだと思っていたのだ。
その夜、先生が梶の部屋を覗くと剃刀で頸動脈を切り自殺していた、遺書には先生への謝罪、お嬢さんのことは書いていなかった
葬儀が執り行われ、梶の父は生前から変わったやつでしたと話す


<💢以下ネタバレあり💢>
■重病の父を家族で介護している日置に先生から厚い手紙が届く、(この手紙をあなたが受け取るときは私はこの世にいないでしょう私は卒業しお嬢さんと結婚した)
明治は終わった
■日置が先生の家に行くと、弔中と玄関にある。やはり先生は死んだのだ、、中から静が出てくると日置の足元に倒れ込む、僕に力が足りなかったんです、、日置は嗚咽
静はガラりと玄関の戸を閉める
ーーーあらすじ終わりーーー


🎥🎥🎥
日本文学の最高峰を見事に映画化した傑作だ❗️
漱石の小説の中でも映画化しにくい一作である。書簡体小説なのでそのままやると全部ナレーションになってしまうし、その書簡の中では先生、K、私、が匿名扱いで名前がない。
市川崑はまず大胆に登場人物に名前を与えた。これで原作の持つ名無しの曖昧模糊とした雰囲気が損なわれるという見方もできるが名無しのままだと映画になりにくい。

名前があると途端に登場人物が近代的な自己を持つ感じがする。漱石の『こゝろ』では「明治の精神に殉死」というなかなか謎めいたテーマがあるのだが、近代と日本伝統の狭間で生きる登場人物に名前をつけられなかった漱石に対し、市川崑は映画的便宜だとはいえ名前をつけるのであった。その意味でかなりわかりやすい作品になっている。

最近だと『テネット』の主人公も名無しだったけど、個人的には映画において名前を名乗らないのがわざとらしく見えてしまってあまり好きではない。小説だとKが、、とか書いても自然なんだけどね。
小説だと文字なので「意識の流れ」みたいな主体がはっきりしない描写が可能ではあるけど、映画だと登場人物が画面に出てきちゃうので必ず自己が立ち上がる。そもそも映画というメディア自体が近代の産物なので登場人物が画面に出てくることを避けるのが難しいのだ。
例外はオリヴェイラの『アブラハム渓谷』で小説のような世界を映画に落とし込んでいた、、ただ相当前衛的な手法であり一般的な鑑賞には向かないだろう。
面白いのは先生の手紙が超どアップになる場面があり、小説的に”文字”を映画の中に露出せる実験を市川崑はやっている。

漱石の『こゝろ』は新藤兼人も映画化しており、そっちでは原作通り登場人物がイニシャルになっているが正直うまくいっているとは思えない。(別途レビューします)

さて、そんなこんなで本作『こころ』は美しいモノクロの映像に名優たち、、森雅之、新珠三千代、三橋達也、安井昌二が素晴らしい演技で見応えがある。
森雅之は成瀬『浮雲』の富岡のクズ男のイメージが強く、本作でも立派に😅クズな感じを出していた。
新珠三千代は結婚前は天然で可憐な少女でありながら、結婚後は夫に向き合うときは笑顔、背を向けると能面のような氷の表情がゾーッとする怖さを出していた。
三橋達也もめんどくさい哲学かぶれの青年にぴったりである。
森雅之と三橋達也が手を繋いで野原を歩くシーンがあり、BL風味もうっすらと感じる。森雅之と安井昌二が初めて出会うのも海であって二人とも上半身裸だし、、、新珠三千代が夫に私と彼とどっちを愛しているの?というセリフもありこの辺もBL風味。

余談になるが(というかこのレビュー全体が余談であるがw)森雅之の父は「白樺派」同人として知られる作家の有島武郎である。
明治天皇が死んで、それを受けて乃木大将が殉死したときに、国内の文学者は反応が分かれた。
森鴎外はショックを受け5日後に「興津弥五右衛門の遺書」を書いて忘れられた日本の美徳が失われようとしているというイメージを発信した。
一方で白樺派の有島武郎は殉死について「馬鹿なヤツめ」と日記に書いた。個人の自由、封建社会批判の白樺派からすれば明治大帝の死に続いて殉死する乃木大将の行動は馬鹿としか思えなかったのだ。
その有島武郎の実子の森雅之が映画『こころ』では乃木大将の殉死に触発され自死を選ぶというのも
なんとも因果な話であり、市川崑は狙ったキャスティングだと思う。

『こゝろ』の先生の「明治の精神に殉死」というテーマについては過去から多くの文芸評論家が分析しているところであるが、なかなか謎めいている。正直いうと漱石がどんな思想で「明治の精神に殉死」と書いたのかよく理解できない。
端的に言えば乃木大将の死について漱石は森鴎外寄りなのか白樺派寄りなのかどっちなんだ??ということである。
まず言えるのは殉死イコール明治の精神とも言えないだろうなということである、小林正樹の映画『切腹』で描かれているように江戸幕府時代1630年(寛永7年)ですでに切腹は形骸化している。
『こゝろ』の先生だって殉死なんて言葉すらすっかり忘れていて乃木大将のニュースを聞いた妻がたまたま殉死という言葉を使ったので、ああそういえばそんな言葉もあったなあ、、殉死か、、という程度なのだ。

漱石にとっては殉死という文化は、そう言えば忘れてたけどそんなこともあったな的なものでありいつも意識しない、しかしふと気がつくと意識の底には残滓として溜まっているものである。
そこからは白樺派のように自由には逃げられないし逃げられるなんてのは欺瞞である。一方で白樺派の言うことも理屈の上では理解できる。
そんな複雑な心境があって、先生に名前を与えることができなかったのではないか。

市川崑監督は、有島武郎の息子森雅之の起用からして白樺派的なものを密かに導入している、一方で意識の下にある残滓から自由に逃げられるなんて欺瞞だよなと言う事もわかる、なので”白樺派に殉死させる”という逆転の発想、アクロバティックな筋立てを持ってきたのではないだろうか。
これは方法論は小説と映画で違えども漱石の複雑な心境に極めて肉薄するものであると高く評価できる。
砂場

砂場